名護屋城跡から見る対馬海峡がすばらしい。
唐津市に有る名護屋城跡です。住所は佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931-3です。唐津市から国道382号線を海岸線に沿って約40分ぐらい走ると看板が見えてきます。ご存じの方もいると思いますが、名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城です。1592(文禄元)年の開戦から秀吉の死で諸大名が 撤退するまで、7年の間大陸侵攻の拠点となりました。城の面積は約17ヘクタールにおよび、当時では大坂城に次ぐ規模を誇つていました。周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集ったとされています。現在、名護屋城跡と23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されています。築城は1591(天正19)年に始まり、諸大名による割普請(わりぶしん)によってわずか数ヶ月で完成したといわれています。江戸時代の初期に破却(はきゃく)されたと考えられ、石垣が広範囲にわたって崩されています。建物は現存していませんが、発掘調査を行い、建物の遺構や出土遺物について研究を進めているそうです。名護屋城天守閣跡に行くと、対馬海峡が180°眼下に広がります。建物跡地には礎石が至るところに残っており、目を瞑ると当時の様子が浮かんでくるようです。名護屋城跡地駐車場から約300mぐらいの所には、名護屋城博物館もあります。博物館の常設展示は原始・古代から近現代にいたる日本列島と朝鮮半島との交流の歴史をメインテーマに展示されています。又、豊臣秀吉が作ったとされる復元された有名な「黄金の茶室」なども見ることが出来ます。収蔵品としては、高麗金板経(こうらいきんばんきょう)で、本資料は金製の経典で、観世音経の経文を浮き上がらせた11枚の薄い方形の金板を蝶番で屏風形に連結させたものです。経文は金板の裏に経文を彫刻した木版(もしくは金属板)を押し当てて丹念に打ち出しています。他にも形土器(とりがたどき)、金銅如来立像(こんどうにょらいりつぞう)、北政所宛豊臣秀吉自筆書状(きたのまんどころあてとよとみひでよしじひつしょじょう)などが有ります。