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重文7城「松山城」の特徴


松山城

愛媛県松山市の中心部にある標高132mの勝山山頂に築かれた松山城は、関ヶ原の戦いで功績をあげた加藤嘉明(かとうよしあき)が初代藩主を務めました。その後は、徳川家ゆかりの親藩・松平氏が城主となり、15代続いた後に明治維新を迎えます。築城期間が約25年という最長の歳月を経て完成した城は、城郭建築の集大成であり、四国最大の規模です。
大天守は「現存12天守」のひとつとして国の重要文化財に指定され、本丸を山頂に配し、二の丸、三の丸を含め、城山公園全体が城郭となっています。また園内は桜の名所としても人気。30mの高さを持つ天守の最上階からは、360度のパノラマの絶景が見渡せ、多くの人々に親しまれています。松山城の歴史を振り返るとともに、その魅力について見ていきましょう。

松山城の歴史

松山城は、豊臣秀吉の家臣であった加藤嘉明が築城した城です。加藤嘉明は、柴田勝家(しばたかついえ)と戦った「賤ケ岳の合戦」で、加藤清正(かとうきよまさ)、福島正則(ふくしままさのり)らと共に「七本槍」の一人として活躍し、3,000石が与えられました。豊臣秀吉の死後は徳川家康の家臣となり、「関ヶ原の戦い」の功績で、伊予国20万石の領地を持つ大名となります。1602年(慶長7年)には松山城の築城に着手。この地に松山と言う名が付いたのはその翌年、1603年(慶長8年)のことでした。

1615年(慶長20年)の「大阪夏の陣」では、加藤嘉明は徳川家康の息子・徳川秀忠に従い、出陣。徳川秀忠の息子・徳川家光が初めて甲冑を着用する儀式「鎧着初め」で大役を果たし、40万石で会津へ移ります。1627年(寛永4年)、加藤嘉明の代わりに出羽国(山形県)から移った蒲生忠知(がもうただとも)が松山藩主となりました。しかし、1634年(寛永11年)蒲生忠知が急死し、蒲生家は断絶。その翌年の1635年(寛永12年)に、伊勢国(三重県)桑名城主であった松平定行(まつだいらさだゆき)が15万石で松山城に入国し、松山藩主となります。松平氏の時代に、松山城は25年の歳月をかけてようやく完成しました。その後、明治まで松平家の居城として受け継がれるようになります。かつて5層6階であった大天守は、落雷により焼失。その後、新たに3層3階地下1階に造り直されました。

しかし、1784年(天明4年)には落雷により、再び天守が焼失してしまいます。天守の再建工事が開始したのは1820年(文政3年)のことで、この工事は1854年(安政元年)に完成しました。さらに、1870年(明治3年)には火災により三の丸が焼失。また1872年(明治5年)には同じく火災で二の丸も焼失してしまいました。その後、1966年(昭和41年)から木造で大規模な復元工事が開始され、在りし日の姿を今に残しています。6棟の櫓、7棟の門、7棟の塀は国の重要文化財に指定されました。

松山城の特徴

高石垣
高石垣

松山城は、標高約132mの勝山に築城された平山城で、別名勝山城とも呼ばれました。現存する12天守のひとつであり、江戸時代最後の城郭建築として、圧倒的な存在感を放っています。加藤嘉明は、朝鮮戦争で「安骨浦城」(あんごるぽじょう)と呼ばれる倭城(わじょう:日本軍が朝鮮南岸一帯に築城した、日本式の城郭)を拠点とした経験から、鉄壁の防御を誇る難攻不落の城づくりを目指しました。3層3階地下1階の層塔型天守は、小天守、隅櫓を渡櫓で結んだ連立式天守です。また、本丸とふもとの二の丸との間に「登り石垣」をはじめ、防御面に強い高石垣を随所に築きました。

縄張りを担当したのは、加藤嘉明の家臣であった足立重信(あだちしげのぶ)です。勝山山頂を削って本丸を築き、本丸から南西方向へ伸ばしたかたちで二の丸、三の丸を置く連郭式構造となっています。また、足立重信は、土木・治水技術に秀でた人物で、松山城築城にあたり、氾濫の多かった湯山川の河動改修工事を監督。現在の重信川、石手川の工事を手がけ、松山城下町の基礎を作りました。

松山城の見所

江戸時代に建てられた松山城には、現存する多くの建造物があり、天守を含め21の重要文化財があります。当時の様子に思いを馳せることができるのも、松山城の見所です。

①天守・小天守

連立式天守
連立式天守

松山城の天守は、関ヶ原の戦い以降に作られるようになった「層塔型天守」。これは、藤堂高虎によって考案され、同じ形を段々小さい形にして積み上げた構造となっています。同じ形を作ることで工期の短縮や経費を抑えることができました。この3層3階地下1階の天守に、二の丸、三の丸を監視することができる小天守や付属櫓をつなげた「連立式」となっています。この連立的天守は国内でも代表的な建造物群で、防御力を高めていました。

②一ノ門・一ノ門南櫓(みなみやぐら)

一ノ門・一ノ門南櫓
一ノ門・一ノ門南櫓

一ノ門は天守に通じる門であったため、ここで防御力を高めることが重要でした。高麗門を両側で支える櫓は、敵を上から攻撃できる構造です。一ノ門と手前にある二ノ門の間の枡形と呼ばれる空間は、そこで敵の足を止める防御機能の役割を果たしています。

③南隅櫓(みなみすみやぐら)・渡櫓(わたりやぐら)・北隅櫓(きたすみやぐら)

隅櫓
隅櫓

高石垣の上に建てられた南北の櫓をつなぐ渡櫓は、裏手にある西側方面を防御する重要な役目を持っています。長さが十間あったことから十間廊下とも呼ばれました。両側に建つ南隅櫓と北隅櫓は、方位名から、申酉小天守と戌亥小天守とも呼ばれ、天守に次ぐ格式となっています。

④筋鉄門(すじてつもん)

筋鉄門
筋鉄門

小天守と天守をつなぐ中庭を防衛するために建てられた櫓門で、重要な役目を担っていました。東側にある三ノ丸からの侵入者を防ぎ、この櫓から射撃する構えとなっています。1933年(昭和8年)の放火事件で焼失。現在の門は、昭和43年に再建されたものです。

⑤天神櫓

天守の鬼門である東北には、鬼門封じを目的とした天神櫓が建てられました。松平家の祖先神である天神こと藤原道真公を祀ったことからこの名前が付いています。全国的にも珍しい寺社建築を取り入れた櫓です。

⑥紫竹門(しちくもん)

紫竹門
紫竹門

小天守の下に建てられた格式のある高麗門です。屋根は本瓦葺となっています。両側に漆喰で作られた西塀と東塀が続き、天守への防御としての役目を果たしていました。天守は1784年(天明4年)の落雷で焼失。現在の門は嘉永年間(1848 ~1853 年)に再建されたと言われています。

⑦乾櫓(いぬいやぐら)

北のふもとから登城路(とじょうろ)を上がり、本丸に到達する場所に建てられた櫓です。裏手側からの侵入を防御する役目がありました。太鼓壁といって、弾丸が壁を突き抜けないように、壁の中に小石や瓦を詰めて増強する工夫がされた防御壁を採用。城内の建造物では最古の櫓であり、その風格から歴史の重みを感じられます。

⑧野原櫓

野原櫓
野原櫓

乾櫓と共に最古の建造物で、本丸西北を防備している野原櫓は、櫓として日本で唯一現存する望楼型二重櫓です。1階の天井の梁で2階を支える構造で、「犬山城」の天守と同じ建築手法となっています。松山城天守は層塔型となっているため、この違いを見られるのも松山城ならではです。

⑨隠門・隠門続櫓

隠門・隠門続櫓
隠門・隠門続櫓

本丸を防備する上で、最も重要な位置に建つ隠門です。筒井門から攻め入る敵を背後から襲撃するためで、隠門という名前の通り、両側の続櫓に隠れ、見えにくい場所にありました。規模は小さいですが、豪壮な雰囲気をかもし出しています。

⑩筒井門

本丸の入り口にある大手門(正門)です。松平定行が松山城に入城する前に居城していた正木城から移築されたものと伝えられています。敵陣を抑える重要な役目を持つ、松山城最大の門です。

⑪戸無門

扉がないことから名付けられた戸無門です。本丸に到着した際に最初に通る門で、正面の入口にある筒井門へ敵を誘い込むための門だと言われています。

⑫太鼓門・太鼓櫓

太鼓門・太鼓櫓
太鼓門・太鼓櫓

戸無門から真正面にそびえる太鼓櫓と太鼓門は、6.9mの石垣の上に建造されました。太鼓櫓と太鼓門は約24.41mの渡塀でつながれています。渡櫓は鉄砲を撃つための狭間21ヵ所、石落し2ヵ所が配した防御面に重点を置いた構えです。いかに松山城が防備面に力を注いだかが伝わってきます。

⑬石垣

登り石垣
登り石垣

平山城である松山城は、山の中腹から侵入する敵を防ぐため、麓の館と山頂の天守を石垣でつなぎました。これを「登り石垣」と呼びます。朝鮮出兵のときに日本の遠征軍が築城した倭城で行なわれた防備手法です。これがあるのは、日本国内で、「彦根城」と松山城だけになります。また、屏風のように見えることから屏風折の石垣と呼ばれる場所は、万里の長城を思わせるほどの壮大さです。

※この記事は、2020年(令和2年)4月時点の情報に基づいて作成されています。
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