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城情報

大阪城の特徴

大阪城は、大阪市中央区に位置し、大阪の人たちのランドマークかつシンボルとなっています。日本一高い堅牢な石垣の上に建てられた巨大な天守と広大な城郭は、江戸城名古屋城と並ぶ、日本三大名城のひとつです。豊臣秀吉が築城したことから「太閤はん」の城と呼ばれ親しまれていますが、実際は豊臣秀吉以前にも織田信長が築城を開始した場所であり、また豊臣秀吉の死後には、徳川家康が西の丸にもうひとつの天守を築城しました。大阪夏の陣での焼失後は、2代将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)が再建します。
このように大坂城は、戦国時代を代表する武将・織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国三英傑が関わった貴重な城郭と言えるのです。このような数奇な運命をたどった大阪城の歴史と魅力についてご紹介します。

大阪城の歴史

戦国三英傑が、大阪城にどのように関わっていたのでしょうか。織田信長、豊臣秀吉、そして、徳川家康の動きと共に、大阪城の歴史をひも解いていきましょう。

天下統一を目指し、織田信長も狙った大阪城

天下統一を目指し、織田信長も狙った大阪城

大阪城が建つ上町台地は、浄土真宗の本山である石山本願寺が建てられていた場所です。1496(明応5)年に、本願寺8世法主の蓮如(れんにょ)が大坂坊舎を建立。山科の本願寺が焼き討ちされた後、石山本願寺が本山となります。そこに堀や塀、土塁などを築き、城砦としての形をなしていきました。また、寺内町も造られ、これが大阪市内の原型になったとも言われています。11世法主 顕如(けんにょ)の時代になると、天下統一を目指していた織田信長が何度も攻め入ります。本願寺派の僧侶たちや門徒がこれに抵抗し、11年にも及ぶ石山合戦が繰り返されますが、1580(天正8)年に和議が成立。織田信長に明け渡されます。織田信長は、すぐにこの地に大阪城の築城を開始しますが、明智光秀の謀反による本能寺の変で、織田信長はこの世を去り、その城が完成することはありませんでした。

豊臣秀吉の財力と権力を誇示した大天守・大阪城

豊臣秀吉の財力と権力を誇示した大天守・大阪城

本能寺の変の後、清須会議で大阪の地は池田恒興(いけだつねおき)に与えられますが、池田恒興はすぐに美濃へ国替えとなります。1583(天正11)年に豊臣秀吉が、天下統一を目指して、安土城を越える5層の大天主を持つ壮大な大阪城の築城を開始しました。築城奉行は、名人と謳われた黒田官兵衛(くろだかんべえ)が担当します。豊臣秀吉は、主君であった織田信長の安土城を凌駕する城造りを目指しました。
1599(慶長4)年、5層6階、屋根には金の鯱を装飾した絢爛豪華な天守ができ、「三国無双の城」と讃えられるほどの豪壮な城郭が完成します。本丸の築造には1年半、さらに15年の歳月をかけ、堀を二重、三重にするなど、難攻不落の城を築き上げていきました。それと同時に大阪の町作りも行ない、近世城下町の先駆けとなる、政治・経済・軍事・文化の中心地を造ります。これにより、織田信長から受け継いだ近世城郭や城下町構想を豊臣秀吉が完成させたと言えます。

栄華を誇った豊臣家も徳川家康により滅亡させられる

栄華を誇った豊臣家も徳川家康により滅亡させられる

豊臣秀吉の死後は、豊臣秀頼が城主となり、摂津、河内、泉を支配します。しかし実際の権力は徳川家康が握り、大阪城内西の丸に天守を築いて政務を行ないました。1600(慶長5)年に、石田三成関ヶ原の戦いで敗れ、さらに豊臣家は勢力を失っていきます。勝利した徳川家康が1603(慶長8)年に江戸幕府を開くと、大阪城の豊臣家との緊張関係がさらに高まり、遂に1614(慶長19)年「大阪冬の陣」が開戦。徳川軍の20万人にも及ぶ大軍に攻められます。講和による終戦となるも三の丸は破却。二の丸は埋め立てられ、本丸のみとなってしまいます。さらに1615(慶長20)年5月6日、15万5千人あまりの徳川軍に再び攻め入られ、豊臣秀頼、淀殿が自刃します。これがいわゆる「大阪夏の陣」と呼ばれる戦いで、豊臣家は滅亡となりました。

幕府の直轄地となった大阪城に天下普請で城を再建

時代が流れ、大阪城は、1619(元和5)年に幕府の直轄領地となります。1620(元和6)年に2代将軍徳川秀忠の命で、大阪城の再建が始められました。豊臣方の大名たちの勢力を抑えるため、西国と北陸の諸大名64家が命を受け、天下普請により築城されます。総奉行には藤堂高虎(とうどうたかとら)を任命し、「石垣の高さ、堀の深さを豊臣時代の2倍に」と命じ、天守の高さが58mとなる巨大な城を築きました。大阪城の石垣は、大きさだけでなく、その堅牢さも別格と言えます。廃城となった伏見城をはじめ、海路を使い、瀬戸内の島々からも石が運ばれるなど、大名たちが威信をかけ、築城に力を注ぎました。こうして1629(寛永6)年、3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の時代にようやく完成します。この再建でかつての豊臣時代を象徴する痕跡はことごとく消し去られました。

大阪城を襲ういくつもの悲劇~3度の落雷や大火で焼失~

江戸時代、落雷などで焼け落ちた城は数多くありますが、大阪城も何度もの悲劇にあってきました。1660(万治3)年には、火薬庫に落雷し、大爆発が起きます。その5年後には、天守北側の鯱に落雷し、大天守が焼失します。大阪城は、その後14代徳川家茂(とくがわいえもち)が入城するまでの230年もの間、徳川将軍は訪れることはありませんでした。江戸末期の1868(慶応3)年に、15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が大阪城に一時的に居城しますが、鳥羽・伏見の戦いに敗れると、江戸へ退き、大阪城は新政府軍の物となります。鳥羽・伏見の戦いで、大阪城内の多くの建造物は焼失。その後も火災や空襲などに見舞われました。

戦国三英傑が夢描いた城の跡

天下統一の拠点として、織田信長が築城を決め、家臣の豊臣秀吉がその思いを引継ぎ、自ら天下統一を目指した大阪城。しかし、その後、豊臣家は徳川家康に敗れ、大阪城は徳川家のものとなります。こうした因縁のある3人が夢見た大阪城は、歴史の礎となり、今も多くの人々に歴史ロマンという夢を与え続けてくれています。巨大な城郭を持つ大阪城の歴史には、一時代を築いた戦国三英傑の想いがこめられているようです。

大阪城の縄張

大阪城の縄張

大阪城が建てられた上町台地周辺は、大雨が降れば淀川と大和川の逆流で湿地になってしまう場所でしたが、この台地だけは唯一高台だったため、難を逃れていました。貿易港として繁栄していた堺の河口にあり、物流経済が活発だったこと、西国大名を討伐する最前線の場だったことなどから、織田信長はこの要所を手に入れようと必死になります。また、淀川、大和川が自然の要塞となりえたことから、城造りにおいて是が非でも手に入れたい場所でした。

豊臣秀吉が築いた大阪城の資料はほとんど残っておらず、現在の大阪城は、徳川家が豊臣秀吉の縄張りの上に高さ数mから10mぐらいに盛土をし、新たな石垣を築いたものです。石垣には多くの巨石が使われ、築城技術は高度で洗練されたものとなっていました。

大阪城の城郭は、本丸を中心に、二の丸、三の丸で囲んだ輪郭式平城で、最大の特徴はその広さです。また、北、東、西が淀川という天然の堀をはじめ、2重、3重の掘りで囲まれていました。420万㎡の広さは、現在の大阪城公園の約4倍にあたります。1959(昭和34)年の発掘調査では、地表から約10m地下に火災痕のある石列が見つかり、1984(昭和59)年には、深さ1mの地中から高さ6mの石垣が発見されました。これらは豊臣秀吉時代のものですが、現在は再び地中に埋められています。

真田幸村(真田信繁)が築いた出城「真田丸」

真田幸村(真田信繁)が築いた出城「真田丸」

大河ドラマで有名となった真田丸は、大阪冬の陣で、武将・真田幸村(さなだゆきむら)が、大阪城の南、平屋口に築いた出城です。難攻不落と言われた大阪城でしたが、父・真田昌幸(さなだまさゆき)から「大きいからこそ必ずほころびが出る」と言われていました。南側が陸続きで弱点となっていることから、防御力を高めるため、真田丸を築き、攻撃の拠点とします。その結果、大阪冬の陣では徳川軍に大打撃を与えることとなりました。現在、その跡地とされているのが三光神社で、真田幸村の銅像が建てられています。

大阪城の史跡(重要文化財に指定されている史跡一覧)

現在の天守は、5層8階、約58mの高さを誇り、空堀、水堀に建てられた石垣は日本一の高さ。また、現存している大手門や一番櫓、多門櫓などの史跡は、どれも大きなスケールと高い技術により造られていました。その他にも多くの建造物が重要文化財に指定され、大阪城跡は国の特別史跡となるなど、日本を代表する歴史的建造物です。ここでは、その史跡について詳しく紹介します。

大手門

大手門

1628(寛永5)年に建造された大坂城の大手門は、高麗門様式となっており、南と北、それぞれに城壁の土塀が続いている形です。1783(天明3)年の雷火を逃れ、建築当初のまま現存しています。

桜門

桜門

大坂城本丸の正面入口、天守閣を正面に望む主要な場所にある門。位置は違いますが、豊臣秀吉時代も、桜並木の近くにあることから桜門と名付けたと言われています。桜門枡形を囲む石垣群は、巨石が並ぶ荘厳な造りが特徴です。戦後の台風で倒壊しましたが、1969(昭和44)年に復元されました。

一番櫓

一番櫓

大坂城二の丸南側の東端に立つ櫓で、大手門と同じ年代に建てられました。玉造桝形付近から西側の大手口まで合計7棟の櫓が立ち並んでいましたが、現存するのは一番と六番のみとなっています。

乾櫓

乾櫓

西の丸の西北角に建つ隅櫓は、1620(元和6)年に小堀遠州の設計で造営された2階建ての二重櫓です。1階と2階の床面積が同じで、天守閣の原型とも言えます。

六番櫓

六番櫓

1638(寛永5)年に創建。一番櫓と同様に二重櫓で、当時は、二の丸南面の城壁の要所に建てられた合計7つの隅櫓のうちの1つでした。櫓内には、石垣斜面を登って侵入してくる敵に対し、石を落とすための「石落とし」や軍備の跡が伺えます。

多門櫓

多門櫓

大手口枡形部分の石垣の上に建てられた一重の櫓です。防御する土塀の代わりに造られました。総高14.7mという大きさの櫓は大阪城に現存する櫓の中で唯一となっています。1783(天明3)年に落雷で焼失後、1848(嘉永元)年に再建されました。

千貫櫓

西の丸庭園の西南隅にあり、多門櫓の北側に位置しています。1620(元和6)年、小堀遠州の設計で造られました。乾櫓と共に現存する最古の建造物となっています。石山本願寺時代に織田信長の軍勢が、隅櫓から横矢攻撃に翻弄され、「千貫払ってもあの櫓を手に入れたい」と言わしめたことからこの名前が付いたとされています。

金蔵

金蔵

字のごとく、徳川幕府の金貨・銀貨の保管庫として使用されていました。1625年(寛永2)年に2階建てで建てられたものが、1837(天保8)年に平屋に改築されています。

焔硝蔵(えんしょうぐら)

1660(万治3)年、火薬庫で大爆発が起き、大火災となったため、その後、石造りの火薬庫が建てられました。外壁はもちろん、内部の壁、床、天井全てに花岡岩の切石が使われており、現存する唯一の石造火薬庫となります。

金明水井戸屋形

金明水井戸屋形

1626(寛永3)年、天守と同じ時代に建てられました。豊臣秀吉が水を清めるために井戸に黄金を沈めたという伝承から金明水の名前が付けられています。徳川家の時代には、この井戸は「黄金水」と呼ばれていました。

大阪城の見どころ

大阪城の見どころ

広さ約100haを誇る大阪城公園内は、現在、大阪城天守閣をはじめ、本丸、二の丸、西の丸庭園、迎賓館、豊臣秀吉が祀られている豊国神社など、豊臣秀吉時代の史跡を楽しめる場所となっています。春には約3,000本の桜、約1,200本以上の梅が咲き誇る公園として市民に親しまれています。また、大阪城の特徴のひとつである三方を川に囲まれていることから、内濠(堀)を御座船に乗り、川面から天守を眺めるという贅沢な遊びを堪能できます。迫力のある巨大石垣を間近で見ることのできる貴重な機会にもなっています。

大阪城天守閣

天守閣内は、歴史展示スペースと展望台になっています。豊臣秀吉時代を中心に当時の大阪城の模型や資料、兜や甲冑が展示されている他、シアタールームでは豊臣秀吉と大阪城に関する番組を上映。大阪城が「太閤はんの城」と言われる所以の展示内容です。1階と8階にミュージアムショップがあり、大阪城ペーパークラフトをはじめ、大阪城を模した形の品が揃っています。また、2階では、復元した戦国武将の兜や陣羽織の試着体験ができるコーナーもあり、戦国時代を体験できます。

本丸

紀州御殿の庭(回遊式日本庭園)や重要文化財となっている金蔵、金明水井戸屋形、桜門などがあり、大阪城の歴史を伝える史跡に触れることができます。

西の丸庭園

天守閣の西、6.5haの広さを誇る大庭園は、春には約300本のソメイヨシノが咲き乱れる桜の名所ともなっています。

茶室(豊松庵)

豊臣秀吉が城内に千利休を招き、茶の湯を楽しんだという史実から、松下幸之助が1969(昭和44)年起工、大阪市へ寄贈されたものです。現在は迎賓館の付帯施設となっています。

豊国神社

「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」が御祭神として建てられ、1961年(昭和36)年に大阪城公園内に奉遷されました。この地は、かつて織田信長が攻め続けた石山合戦の地でもあり、和睦になる程、要害堅固な場所であったため、豊臣秀吉公もこの地に大阪城を建てたのです。

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