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赤穂城の特徴

兵庫県赤穂市にその跡を残す「赤穂城」(あこうじょう)は、1971年(昭和46年)、国の史跡に指定された赤穂市のシンボルです。「忠臣蔵」で有名な赤穂浪士の故郷として、現在も多くの歴史ファンが赤穂城へ足を運んでいます。

そんな赤穂城は、甲州軍学者の近藤正純(こんどうまさずみ)の設計により、13年にも及ぶ年月を費やされて完成した近世城郭です。築城から廃城、復元まで数多くの手が加えられてきました。ここでは、赤穂城の歴史を振り返るとともに、その魅力についてご紹介します。

赤穂城の歴史

赤穂城の歴史
赤穂城の歴史

赤穂城が築城されたのは室町時代です。赤松氏の一族である岡豊前守(おかぶぜんのかみ)が居館を築きましたが、当時は「加里屋城」と称していました。

戦国時代に入ってからは、豊臣秀吉の家臣で五大老の一人、岡山城主の宇喜田秀家(うきたひでいえ)が支配し、赤穂城を支城とします。関ヶ原の戦い宇喜多秀家の豊臣軍が敗れると、播磨姫路藩の初代藩主である池田輝政(いけだてるまさ)が入国し、姫路城の支城としました。

1614~15年(慶長19~20年)にわたる「大坂の陣」の後、池田輝政の5男である池田政綱(いけだまさつな)が入国し、赤穂藩が成立。このときに、小規模な城へと改築されました。そして、あとを継いだ弟の池田輝興(いけだてるおき)により、赤穂城はさらに改築されます。しかし、池田輝興が突如発狂し、妻と侍女を切り殺したことにより、池田家は身分を剥奪され、二代で途絶えることになりました。

その後、1645年(正保2年)に、常陸笠間藩主であった浅野長重の長男・浅野長直(あさのながなお)が入国し、播磨赤穂藩初代藩主となります。3年後の1648年(正保5年)には本格的な近世城郭を築きました。浅野長直の時代には城下町の整備も完了し、日本三大水道のひとつと言われる上水道も完成します。また、塩田開発にも力を入れ、播磨赤穂藩の繁栄を築きました。

しかし、第2代藩主・浅野長友(あさのながとも)は若くして死没。跡を継いだ第3代藩主・浅野長矩(あさのながのり)は、1701年(元禄14年)に江戸城の松之大廊下で吉良上野介(きらこうずけのすけ)への刃傷沙汰を起こします。播磨赤穂藩の筆頭家老であり、のちの赤穂浪士のリーダーとなる大石内蔵助(おおいしくらのすけ)は、この刃傷沙汰の知らせを赤穂城で受けました。この事件により浅野長矩は切腹を命じられ、浅野氏は身分を剥奪されます。しかし、これに納得のいかない大石内蔵助や職を失った46人の赤穂浪士が、吉良邸に討ち入りし主君の仇を討ちました。これが有名な「元禄赤穂浪士事件」です。「元禄赤穂浪士事件」を題材に作られた歌舞伎や落語、映画といったフィクションは「忠臣蔵」という作品名で知られています。

その後、赤穂城は龍野藩主の脇坂安照(わきさかやすてる)の預かりとなりました。翌年には譜代大名であった永井直敬(ながいなおひろ)が新しい城主となり、1706年(宝永3年)には永井直敬の国替えによって、備中西江原藩の森長直(もりながなお)が入国。明治に至るまで森氏の居城となっていました。明治維新の廃城令によって赤穂城は取り壊され、数奇な運命に翻弄された赤穂城の歴史に終わりを遂げます。現在ある大手門や櫓(やぐら)などは、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしてから250年後にあたる1950年(昭和25年)に復元されたものです。

赤穂城の特徴

珍しい城郭形式

赤穂城は、五稜郭のような形をしており、本丸と二の丸が輪郭式、二の丸と三の丸が梯郭式をもつ、変形輪郭式の非常に珍しい近世城郭です。また、築城された当時は、二の丸の南半分と三の丸の西側が瀬戸内海に面しており海城でもありました。

広い縄張

赤穂城は三方を山に囲まれ、東側に千種川(ちくさがわ)、南側に瀬戸内海と、天然の要塞を活かした縄張です。敷地は広く、全体で12の城門と10の隅櫓(すみやぐら)を設けた城郭でした。

本丸の面積は約15,114㎡で、かつて本丸の中央には、藩主の屋敷である本丸御殿が建っていました。現在は、南東部に天守台、庭園などが残っています。赤穂藩初代藩主の浅野長直が天守台のみ建造し天守を建造しなかった理由は、5万3千石しかない浅野家にとって、赤穂城は広大すぎたため財政難となってしまったからです。二の丸が本丸を囲む輪郭式になっており、本丸には、本丸門、刎橋門(はねばしもん)、厩口門(うまやぐちもん)の3つの門が設けられていました。

二の丸は、南北を土塀で仕切られた造りになっています。これは、敵が攻めて来た際に本丸を包囲できないようにするためです。北側のエリアには、家老・大石頼母助(おおいしたのものすけ)の屋敷、南側のエリアには、米蔵、馬場、遊水池などがありました。門は全部で5つあり、二の丸門、水手門、西中門、東と西の仕切門です。

三の丸は、二の丸の北側に位置し、大石内蔵助をはじめとする、赤穂藩の重臣が住む屋敷が約20軒ありました。城の玄関口である大手門をはじめ、清水門、塩屋門、干潟門の四箇所に門を設けています。

甲州流軍学を活かした設計

甲州流軍学を活かした設計
甲州流軍学を活かした設計

赤穂城は、砲撃戦など当時の最新鋭の戦が想定された城として整備されました。

浅野長直が赤穂城を本格的な近世城郭へと改築する際、その縄張の設計に携わったのが甲州流軍学者の近藤正純(こんどうまさずみ)。甲州流軍学とは、武田信玄の戦術を理想化し、小幡景憲 (おばたかげのり)が開いた軍学の流派です。

このとき、赤穂藩で軍学を教えていたのは、山鹿流軍学者の山鹿素行(やまがそこう)でした。そのため、浅野長直は山鹿素行にもお伺いを立てる形となり、二人の軍学者が携わったことで、複雑な縄張を特長とする城になったのです。また、石垣においても軍略を考慮しており、近世城郭の直線的な石垣ではなく曲線にすることで、攻めてくる敵に対して放射状に弓矢や鉄砲を射ることができる作りにしていました。

また、儒学者でもあった山鹿素行は、孔子や孟子の教えを取り込みながら、実践的な儒学と兵学を融合させた兵法を生み出します。山鹿流兵法の祖となった山鹿素行は、大石内蔵助をはじめ、赤穂藩士たちに多大な影響を与えました。山鹿素行は赤穂藩で浅野家より優遇され、二の丸に唯一屋敷を構えていた家老・大石頼母助の屋敷で8年ほど暮らします。この大石内蔵助がリーダーとなって赤穂藩主・浅野長矩の仇討ちが行なわれました。元禄赤穂浪士事件後、江戸にて山鹿流兵学は実践的な軍学として人気を得ます。

赤穂城の見どころ

赤穂城の見どころ
赤穂城の見どころ

赤穂城跡へのアクセスは、JR播州赤穂駅から歩いて20分ほどです。本丸・二の丸・三の丸のすべての曲輪が残っており、本丸の一の門や二の門、三の丸にある大手門や大手隅櫓、堀に巡らされた石垣など、当時の様子を彷彿させる城跡となっています。また、近世城郭の貴重な遺構として1971年(昭和46年)に国の史跡にも指定されました。ここでは、赤穂城の見どころについて紹介します。

本丸門と本丸櫓門

本丸門と本丸櫓門
本丸門と本丸櫓門

本丸の表玄関は、長方形の内枡形(うちますがた)を備えた櫓門(一の門)と高麗門(二の門)から成っていました。明治の廃城令で取り壊されてしまいましたが、発掘調査をもとに、1992~1996年(平成4~8年)にかけて復元。現在、本丸櫓門は展示室となっており、発掘調査に関する貴重な資料などを観覧することができます。なお、本丸櫓門が一般公開されるのは、特定の土日祝日のみです。

天守台

天守台
天守台

本丸に天守は築かれませんでしたが、立派な天守台が残っています。高さ9.2mにも及ぶ天守台は、見事な石垣造り。松本城彦根城よりも大きく、天守台からは本丸全体を眺めることができます。

三の丸

三の丸
三の丸

三の丸には、赤穂城跡の玄関口である大手門があります。内枡形の虎口になっており、高麗門と櫓門から成る城門でしたが、明治初期に失われました。その後、1955年(昭和30年)に高麗門と、防備の要となっていた大手隅櫓が再建されています。

また、三の丸には、近藤源八正憲邸長屋門と大石邸長屋門が残っています。赤穂城内に現存する江戸時代の建物は、これらの長屋門のみ。1923年(大正12年)、この2つは国の史跡に指定されました。

近藤源八正憲邸長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれており、近藤源八は、赤穂城の設計をした近藤正純の子です。大石邸は、播磨赤穂藩の筆頭家老である大石内蔵助が三代にわたって居住していた屋敷で、正面門の長屋が現存しています。

武家屋敷公園

三の丸の跡地には、現在、武家屋敷公園が整備されています。浅野氏時代に、家老に準ずる坂田式右衛門の屋敷があった場所を、1983年(昭和58年)に、門と瓦葺き土塀を整備し、復元。武家門や築地塀井戸屋形などを配しており、江戸時代の武家屋敷の景観を残しています。

赤穂神社

赤穂神社
赤穂神社

赤穂城の三の丸にあった大石内蔵助と藤井又左衛門の屋敷跡に、1912年(大正元年)に赤穂大石神社は建立されました。ご祭神は、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士です。また、浅野家の城主を代々務めた播磨赤穂藩初代藩主・浅野長直、2代目・浅野長友、3代目・浅野長矩、そして、浅野家断絶後に城主となった森家の遠祖である森欄丸ら、七代に渡る武将を合祀しています。

神社内には、義士宝物殿、義士宝物殿別館、義士木像奉安殿、大石邸長屋門・庭園の4館から構成される義士史料館があり、見どころ満載です。義士宝物殿には、大石内蔵助の所持した小刀や討ち入りに使用した采配、義士たちの形見、四十七義士の木像など貴重な品を展示しており、忠臣蔵ファンには見逃せない場所となっています。宝物殿別館には、甲冑をはじめとする森家や浅野家の遺品などが展示。大石内蔵助庭園は国指定史跡になっており、瓢箪池(ひょうたんいけ)を含む一帯が、江戸時代に発達した池を中心にその周囲に園路を作る池泉回遊式の庭園となっています。