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名古屋城の特徴

名古屋市のシンボル、名古屋城の敷地は約250,000㎡と広大で、1930年(昭和5年)には貴重な城郭建築として、当時の国宝第一号に指定されました。巨大な天守の屋根に添えられた金の鯱(しゃちほこ)が有名で、金鯱城、金城とも呼ばれています。三の丸部分は、現在では愛知県庁や名古屋市役所が建てられており、名古屋市行政の中心地です。

名古屋城は、織田信長豊臣秀吉の築城技術を受け継いだ徳川家康が、豊臣氏の恩顧大名20名に命じて築いた城で、近世城郭において高く評価されています。縄張は藤堂高虎(とうどうたかとら)、天守台の石垣は加藤清正(かとうきよまさ)が担当。当時の城づくりの名手が揃えられていました。

名古屋城は、江戸幕府を開いた徳川家の権力を知らしめた城です。伊勢音頭に「尾張名古屋は城でもつ」とあるように、名古屋城は昔から、諸国大名を圧倒するほどの財力を誇る豪華絢爛な城でした。ここでは名古屋城の歴史を紐解くと同時に、その特徴について紹介していきます。

名古屋城の歴史

名古屋城の歴史

名古屋城の前身と言われている城があります。それが、室町時代に駿河(現在の静岡県)の守護であった今川氏親(いまがわうじちか)が築いた那古野城(なごやじょう)です。那古野城は1538年(天文7年)に、織田信長の父で尾張の守護代を勤めていた織田信秀(おだのぶひで)が今川氏を追放したことにより城主になりました。1546年(天文15年)には息子・織田信長に引き継がれ、1555年(天文24年)に清洲城へ移るまで、織田信長は那古野城を居城に。その後、織田信長の叔父にあたる織田信光(おだのぶみつ)が城主となりますが、彼の死後、豊臣秀吉の甥・豊臣秀次(とよとみひでつぐ)、家臣の福島正則(ふくしままさのり)へと引き継がれ、1582年(天正10年)に那古野城は廃城となります。那古野城跡の碑は、現在は二の丸庭園で見ることが可能です。

その後、名古屋城を築いたのは関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康。大阪城を拠点とする豊臣家へのけん制と、関東防衛線の最大拠点とするために、この尾張の地が選ばれました。それまで尾張藩の中心は清州城でしたが、水害に見舞われることが多かったため、1609年(慶長14年)に名古屋城築城が決定されます。

20名の外様大名に「名古屋城」作りを命じる

1610年(慶長15年)に天下普請として名古屋城の築城が始まります。「天下普請」とは、城郭などを大名に命じて作らせることです。この普請には、徳川家康と対立していた豊臣家と縁の深かった、多くの外様大名が任命されました。これは諸大名の財力を削ぎ、徳川家へ忠誠を誓わせるという目的があったと言われています。任命されたのは、加藤清正、細川忠興(ほそかわただおき)、黒田長政(くろだながまさ)、福島正則、毛利秀就(もうりひでなり)、浅野幸長(あさのゆきなが)、前田利光(まえだとしみつ)などのそうそうたる大名たちでした。各大名はその威信にかけて任務を全うし、なかでも築城の名手・加藤清正は、天守台の石垣を3ヵ月もかけずに築きます。城郭全体の石垣も1年足らずで完成させました。

また、徳川家康は名古屋城を築城するにあたって、尾張藩の拠点だった清洲城の小天守を移築。その他の解体した資材も使用しました。また、家臣や町人、商家や質屋まで約60,000人と3つの神社、100を超える寺などをすべて、清州から名古屋城下へと移します。これが「清洲越」です。

名古屋城築城を機に政治的基盤を強固なものに

徳川家康の寵愛を受けた9男・徳川義直(とくがわよしなお)の正室は、紀州藩の初代藩主浅野幸長の娘・春姫でした。浅野家は豊臣家と縁深い大名であり、この婚姻は豊臣側についていた西国大名たちと徳川家の結びつきを強めるための政略結婚だと言われています。このように名古屋城完成と共に、徳川幕府は西国大名との関係を盤石にしていきました。1607年(慶長12年)、徳川義直が尾張藩藩主となり、その後16代に渡り徳川家が太平の世を治めます。

豪華絢爛な「上洛殿」をはじめ、贅の限りを尽くした名古屋城本丸御殿

豪華絢爛な「上洛殿」をはじめ、贅の限りを尽くした名古屋城本丸御殿

1615年(元和元年)、尾張藩藩主の住居かつ尾張藩の政庁となる本丸御殿が完成しました。1616年(元和2年)、徳川家康が亡くなった年に徳川義直が入城。その本丸御殿は、美しい障壁画や装飾金具などで飾られました。1620年(元和6年)、本丸御殿のおよそ3倍とも言われる二の丸御殿が完成し、住居も政庁も移したため、本丸御殿は将軍が上洛の際に宿泊する場所としてのみ使われることになります。なかでも1634年(寛永11年)に第3代江戸幕府将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)上洛の際に増築された「上洛殿」は、襖絵(ふすまえ)、天井板絵、彫刻欄間など、どれも最高傑作と言えるもので、なかでも狩野探幽によって描かれた「帝艦図」や「雪中梅竹鳥図」は美術品としての価値が高いとされています。

永久保存が決定するも、焼失してしまった名古屋城の天守閣

1871年(明治4年)の廃藩置県で、尾張藩は名古屋県となり、名古屋城には、防衛省の所管として陸軍東京鎮台第三分営が置かれました。これに伴い、二の丸御殿などは撤去されますが、名古屋城を保存すべきという声が高まり、姫路城と共に永久保存が決定します。しかしその後、1891年(明治24年)に濃尾地震が起き、多門櫓や榎多門が大破し、石垣も崩落。昭和に入ってからは、名古屋大空襲で天守閣も焼失してしまいました。ところが、貴重な城郭を再建しようと国内外からの寄付が集まり、1957年(昭和32年)には天守閣再建に着工。1959年(昭和34年)、市制70周年の記念事業の一環として、大天守・小天守・正門(榎多門)が鉄筋コンクリート造で復元されます。2018年(平成30年)には本丸御殿が完全に蘇りました。

桜の名所となった現在の名古屋城

名古屋の桜名所としても有名な名古屋城。約10種類、約1,000本のソメイヨシノやシダレザクラが咲き誇ります。桜祭りではライトアップもされ、幻想的な雰囲気の中で、幽玄の世界を楽しむことが可能です。また、名古屋城の正門には総ひのきで建てられた名古屋能楽堂が、城の北側には江戸時代の名残のある御深井池(おふけいけ)や藤の回廊など散策が楽しめる名城公園があります。2018年(平成30年)、本丸御殿の完全復元を機に、周辺の食事処も充実。古くから伝わる伝統銘菓や名古屋めし・グルメが味わえる名店が揃った金シャチ横丁など、観光スポットも充実しています。

名古屋城の史跡

史上最大の延床面積を誇る5層5階地下1階の名古屋城天守は、贅を尽くした絢爛豪華な本丸御殿や二の丸御殿などと共に日本を代表する史跡です。戦災により、天守、本丸御殿は焼失しますが、本丸御殿に残された創建時から現存する襖絵や杉戸絵、3つの隅櫓(すみやぐら)や門などは、1952年(昭和27年)に国の重要文化財に指定されました。2018年(平成30年)に完全復元された本丸御殿を含め、数多くの貴重な史跡を紹介していきます。

金鯱

金鯱

名古屋城の特色を示すのは、大天守の上に付けられた金の鯱です。金鯱は純度80%、小判にして17,975両と徳川家の財力を象徴するものでした。その後、加工と修復を繰り返した金鯱は、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲によって焼失。現在は復元されています。

西南隅櫓

西南隅櫓

本丸の南西に位置し、天守を背景にした美しい景観が臨める櫓で、この西南隅櫓のみ常時一般公開がなされています。未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)とも呼ばれていました。外観の屋根からは二重櫓に見えますが、内部は3階で、非常に珍しい形式の建造物となっています。様式は上下四方に屋根や庇を付けた入母屋造り(いりもやづくり)で、本瓦葺き(ほんかわらぶき)となっていました。明治後期から大正初期に自然災害で倒壊していますが、1923年(大正12年)に宮内省により西南隅櫓は再建されます。鬼瓦には菊の御紋が使用されているのはそのためです。2階西南にそれぞれ、千鳥破風(ちどりはふ)の小型屋根と敵を防御するための石落としが設けられています。

西北隅櫓

西北隅櫓

御深井丸(おふけまる)の北西隅に位置し、戌亥隅櫓(いぬいすみやぐら)とも呼ばれました。大きく立派な3重3階の西北隅櫓は、東西約13.9m、南北約16.9m、高さ約16.2mと江戸時代から現存する櫓で2番目の大きさを誇ります。天守ともなりえる形状の大きさで、宇和島城の高さや高知城の天守の平面面積を超えていました。また、西北隅櫓は清洲城の小天守を移築したと言われており、「清洲櫓」とも呼ばれています。

東南隅櫓

東南隅櫓

本丸南東に位置し、西南隅櫓と同じ様式で外観は2重、内部は3階となっているのが東南隅櫓です。辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)とも呼ばれていました。東南隅櫓の屋根の鬼瓦には、徳川家の家紋「葵の紋」が使用されています。

本丸表二之門

本丸表二之門

本丸への入り口に建てられた主となる門で、二重門の外側の門を本丸表二之門と呼び、内側にある門を表一之門と呼びます。この二つの門で、四角い枡形のようなエリアを形成し、侵入してきた敵をそこで塞き止め、防御しました。本丸表二之門は、名古屋城創建時からの現存する建物です。柱と柱の上に小さい切妻屋根を載せた形状の門で、本瓦葺きの高麗門は貴重な史跡となっています。表一之門は、1945年(昭和20年)の空襲で焼失していまいました。

二の丸大手二之門

二の丸の入り口に建てられた主となる大手二之門は、1617年(元和3年)に完成した二の丸御殿の正門で、西面南寄りに設けられました。二の丸大手二之門の形状は本瓦葺きの高麗門で、両脇にあった土塀は失われています。二重となっていた内側の一之門は、明治時代に失われました。

本丸御殿

本丸御殿

本丸御殿は、膨大な資料に忠実に基づき、10年の歳月をかけて、2018年(平成30年)に復元しました。日本を代表する書院造りで、総面積3,100㎡の大きさを誇ります。徳川義直が公式の対面に使用した「表書院」、身内との対面に使用した「対面所」などを始め、第3代江戸幕府将軍徳川家光上洛のために造られた「上洛殿」や清須城内にあった家康の宿を移築したと言われる「黒木書院」など、当時のまま再現。本丸御殿には、当代きっての絵師によって描かれた障壁画や、伝統を受け継ぐ飾り金具、欄間なども忠実に復元しており、当時の様子に思いを馳せながら間近に楽しむことができます。

二の丸庭園

日本一と言われる30,000㎡の広さを誇り、名園として評価の高いのが二の丸庭園です。儒教の影響が見られ、なかでも、石を滝に見立て組み、その上に石橋を渡す「玉澗流」は、宋の時代の有名な水墨山水画家である玉澗の山水画をモチーフにしています。2018年(平成30年)に二の丸庭園は国指定の名勝となりました。

加藤清正銅像

加藤清正銅像

肥後熊本藩の初代藩主であり、石垣づくりの名人として名を馳せた加藤清正。名古屋城築城の際にも、天守台の石垣の担当を命じられるなど重要な役どころを勤め上げました。その偉業を讃えて、名古屋城には2体の加藤清正銅像があります。ひとつは「加藤清正石曳きの像」。大きな石の上に立つ加藤清正が、扇を手に石の運搬を指揮している姿の像です。もうひとつの加藤清正銅像は、名古屋能楽堂の前に建てられており、名古屋城天守閣を背景に、威風堂々とした雰囲気の坐像となっています。

茶室

名古屋城内には、御深井丸の庭に4つの茶室が設けられています。清洲城の古材を利用して造られたという猿面茶席(さるめんちゃせき)は、床柱の節目が猿の顔に見えたため、当時清州城にいた織田信長が、「木下藤吉郎(豊臣秀吉)の面に似ている」と話したと伝えられていて、それが由来で「猿面茶席」と名付けられました。1620年(元和6年)に本丸から二の丸に移築され、その後、移築された鶴舞公園で戦災により焼失しましたが、1949年(昭和24年)に再建。この茶室の他、書院や千利休の孫・千宗旦の茶室をそのまま模したという又隠茶席(ゆういんちゃせき)、織部焼きの祖である古田織部の功績を讃えるために建てられた織部堂などもあり、なかでも書院内にある台面や付書院(つけしょいん)・袋棚(ふくろだな)などは、加藤清正が植えた松で、枯れてしまったものが材料として使用されています。

縄張

城の設計図である縄張ですが、名古屋城の縄張は非常にシンプルになっています。名古屋城は湿地や木曽川・揖斐川・長良川の木曽三川、さらに名古屋台地の崖といった自然の要害を利用して造られました。天守がある本丸の東側に二の丸を配置。西北に御深井丸と西の丸があり、三の丸がその外側を取り囲んでいるという縄張です。戦国時代の城は、敵から攻め込まれないよう複雑な縄張となっていましたが、名古屋城は、本丸、二の丸、西の丸、御深井丸が直線上に配置されているのも特徴です。大天守は地下も含めて5層6階で、南側には2層3階の小天守が連なっていました。一見攻めやすく見える名古屋城ですが、実際はそれぞれの区域の区画が、堀で仕切られ、独立しています。そのため、他の場所への侵入が難しく、かえって攻めにくい構造となっていました。

また、本丸には3つの狭い入口があり、それぞれが二重の門になっており、四角い枡形のようなスペースを作りだしているため、攻め入りにくく、門の中に敵を閉じ込めることも可能。その入口の外側には、敵の侵攻を避けるために、馬出と呼ばれる総石垣で遮られた障害物が設けられていました。特に表門の外側の大手馬出は巨大です。また、本丸の四隅には、天守と3つの隅櫓(すみやぐら)があり、それらが塀のように多門櫓でつながっており、幾重にも防御がなされていました。

いかがでしたでしょうか。織田氏、豊臣氏が近代城郭の楚を築き、徳川家康がそれを集大成として築き上げた名古屋城は、防衛面においても美術面においても優れた最高峰の城であると言えるでしょう。名古屋に訪れる際は、ぜひ名古屋城をお楽しみ下さい。