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城情報

水戸城の特徴

水戸城と言えば、「水戸黄門」として有名な徳川光圀(とくがわみつくに)が生まれた場所です。茨城県水戸市に建てられた平山城で、徳川御三家のひとつ「水戸徳川家」の居城として知られていますが、築城は古く鎌倉時代初期に建てられたと言われています。他の徳川御三家の居城となった「尾張徳川家」の名古屋城、「紀州徳川家」の和歌山城に比べると、質素な土造りの城でした。

現在、水戸城の城址は文教地区になっており、江戸時代の総合大学と言える藩校「弘道館」が現存。「弘道館」は日本最大規模の立派な藩校で、「弘道館」と合わせて造られた日本庭園「偕楽園」(かいらくえん)は、梅の名所として人気の観光スポットです。この2つは、日本遺産にも認定されました。ここでは、そういった水戸城の歴史と魅力について紹介します。

水戸城の歴史

水戸城の歴史
水戸城の歴史

水戸城は、平安時代の武将、平国香(たいらのくにか)の子孫である馬場資幹(ばばすけもと)が鎌倉時代に築城したとされています。それ以降、200年以上にわたり馬場氏が居城としており、「馬場城」とも呼ばれていました。

しかし、室町時代に入り、1416年(応永23年)になると、足利幕府の江戸通房(えどみちふさ)に攻略されます。江戸氏が城主を務めた時代は7代続きますが、1590年(天正18年)、小田原征伐の際に豊臣秀吉側として参戦した佐竹義宣(さたけよしのぶ)が北條氏側の江戸重通(えどしげみち)を破り入城。本拠を常陸・太田城から水戸城へ移し、水戸城の大改修に着手します。その際に城の名は馬場城から水戸城へと改められました。

しかし改修の最中に、関ヶ原の戦い石田三成(いしだみつなり)側に付いたため、佐竹義宣は秋田の久保田城へ国替えとなり、水戸城は徳川家康の5男である武田信吉(たけだのぶよし)に与えられました。

武田信吉の死後は徳川家康の10男である徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が入城。1609年(慶長14年)に入城した徳川家康の11男で初代藩主・徳川頼房(とくがわよりふさ)により水戸藩が成立し、水戸城は再び改修されます。そして第2代藩主・徳川光圀以降、水戸城は幕末までの約260年にわたり、水戸徳川家の居城となりました。

水戸城三の丸に建てられた藩校「弘道館」

水戸城三の丸に建てられた藩校「弘道館」
水戸城三の丸に
建てられた藩校「弘道館」

水戸藩の体制は、初代藩主・徳川頼房から第2代藩主・徳川光圀の時代に築かれ、城下町整備や家臣団の構成などが整えられました。また、徳川光圀は「大日本史」の編纂を手がけ、これが「水戸学」となり、後世に残る偉大な文化的事業となります。「水戸学」とは、天皇を中心とした尊皇攘夷の考え方や日本古来の伝統を中心に伝えるもので、薩摩や長州を始め、全国に広がるきっかけとなりました。

しかし、藩主が江戸と水戸との二重生活を強いられていたこともあり、藩の財政は大変厳しかったと言われています。そこで、第9代藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)が藩政改革に乗り出します。そのひとつとして、1841年(天保12年)に日本最大の藩校「弘道館」を水戸城三の丸に開校しました。

藩校とは、優秀な藩士を育てるための学校です。「弘道館」は、「真の日本人の育成」を目的とし、儒教教育を礎に文武両立の教育機関として機能していました。学問においては、医学・薬学・天文学・蘭学といった幅広い内容を学ぶことができ、まるで総合大学のような存在です。

当時の「弘道館」は国内最大規模を誇っていた藩校で、「弘道館」が掲げる「神儒一致」「忠孝一致」「文武一致」「学問事業一致」「治教一致」といった5つの理念は、近世日本の教育に貢献しています。「弘道館」では、およそ1,000人の水戸藩士が学んだとされ、明治維新で活躍した西郷隆盛や吉田松陰を始め、多くの幕末の志士に影響を与えました。また、江戸幕府最期の将軍である徳川慶喜(とくがわよしのぶ)も、5歳から11歳までこの「弘道館」で教育を受けており、玄関には父・徳川斉昭と徳川慶喜像が飾られています。

現在、「弘道館」は国の特別史跡に指定されており、現存する本瓦葺きの正門、文武の大試験が行なわれた正庁、徳川慶喜が謹慎した至善堂の3ヵ所は重要文化財になりました。

日本三大名園のひとつ「偕楽園」

日本三大名園のひとつ「偕楽園」
日本三大名園のひとつ「偕楽園」

また、「弘道館」が建てられた翌年の1842年(天保13年)には、梅の名所である「偕楽園」(かいらくえん)を開園。徳川斉昭は、「一張一弛」(いっちょういっし)という儒学の思想に基づいて、厳格な学問を学ぶ「弘道館」と藩主から領民まで皆で楽しむ「偕楽園」を合わせてつくったと言われています。「偕楽園」には、徳川斉昭が自ら設計した木造2層3階建ての「好文亭」があり、文人や家臣などを集め詩歌の会などを催していました。現在の建物は、昭和30年代に復元されています。

広大な敷地も特徴で、ニューヨークのセントラルパークに次ぎ、世界で2番目に広い都市公園でもあり、その広さは東京ドーム約64個分です。約100品種、約3,000本の梅が咲き誇り、ツツジや萩など四季折々の花々を楽しむことができる「偕楽園」は、岡山の「後楽園」、金沢の「兼六園」と並び日本三大名園のひとつとなっています。

水戸城の特徴

水戸城の特徴
水戸城の特徴

水戸城は北の那珂川(なかがわ)、南の千波湖(せんばこ)に挟まれた丘陵を利用した平山城です。本丸、二の丸、東二の丸、三の丸が連なる配置となっており、天守はなく二の丸の御三階櫓が天守の役割を果たしていました。また、石垣を設けず土で盛り上げた壁と、山を切り崩して作った堀で城郭が築かれているのも特徴的です。このように徳川御三家の城でありながら質素な造りになっている理由には諸説あり、ひとつには徳川家が関東の大名に石垣の建設を認めなかったとも、水戸藩主自体は主に江戸で生活をしているため、築城に石垣をつくる必要がなかったとも言われています。

水戸城の改修

水戸城の改修
水戸城の改修

水戸城は城主が変わるごとに改修が行なわれてきたので、江戸氏、佐竹氏、水戸徳川家の時代順に紹介していきます。
江戸氏の時代には、内城(うちじょう)、宿城(しゅくじょう)、浄光寺の3つで構成される縄張りでした。

のちに佐竹氏の居城になると大規模な拡張が行なわれます。江戸氏時代の内城を本丸にするとともに、城門を東から西に移しました。このときに、「薬医門」が建てられたとされています。現存する「薬医門」は平屋建ての門の中で最も格式が高いとされていました。柱と柱の間に大きな屋根を載せた門は、防衛門というよりは格式を重視した門で、風格を感じることができます。そして、佐竹義宣自身の居館を建てて二の丸とし、さらに下の丸と三の丸を整備し、4つの曲輪(土や石垣で区画された場所)から成る城となりました。

江戸時代に入り水戸藩が成立すると、初代藩主・徳川頼房は3度にわたり城郭の整備を行ないます。天守は設けず、二の丸に建てた御三階櫓が天守の役割を果たしていました。二の丸と本丸の間にある土を削ってつくった堀の跡は、現在、JR水郡線の線路が走っていますが、全国でも珍しいほどの大きさを誇っています。その他にも各箇所に堀の跡が残っており、大規模な土造りの城ならではのダイナミックさを感じることができる史跡です。

現在の水戸城跡

現在の水戸城跡
現在の水戸城跡

水戸城は、JR水戸駅から徒歩10分ほどの場所にあり、駅前には、水戸黄門のドラマで知られる「水戸光圀公」こと徳川光圀の像が、「格さん」こと安積澹泊(あさかたんぱく)、「助さん」こと佐々十竹(ささじゅちく)の像と並んで建っています。水戸城本丸跡地は水戸第一高校をはじめ、小学校・中学校・高校が集まる文教地区になっており、旧県庁舎(三の丸庁舎)も残っています。

当時の建造物の多くは焼失、解体されてしまっているため、建築物として現存する唯一の史跡である「薬医門」のみです。この門は、明治の初期に初代・茨城県令の安田邸の表門として移築され、さらに、1941年(昭和16年)には祇園寺に移築されていたことにより戦火を免れました。1981年(昭和56年)に祇園寺から水戸市に「薬医門」が寄贈されると、これを機に、本丸跡地に建つ水戸第一高校の敷地内に復元されます。

また、水戸市では徳川御三家のひとつである水戸徳川家の歴史を残していくため、水戸城の復元整備工事を進めています。その一環として、2015年(平成27年)には、杉山門と柵町坂下門が復元されました。また、城の正面玄関となる壮大な大手門の復元工事が2017年(平成29年)から始まり、周辺道路などの整備を含め約6億円の総工費をかけて、2020年(令和2年)に完成。水戸城の見どころがさらに増えました。