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重文7城「丸亀城」の特徴

丸亀城

香川県丸亀市の中心部にそびえたつ丸亀城は生駒親正(いこまちかまさ)によって築かれた、3層3階の日本一小さな木造天守を持つ城です。安土城大阪城を模したとされるこの城は、城郭だけでなく、城下町も石垣や土塁で囲う総構え(そうがまえ)の手法を取っていました。
丸亀城は「石垣の名城」としても知られており、標高約66メートルに築かれた石垣には、長い歴史に耐え抜いてきた風格があります。また、天守の白壁と石垣のコントラストは四季折々の情景に馴染んで美しいと評判です。
現在では、丸亀市のシンボルとして親しまれ、毎年多くの観光客が足を運んでいます。ここでは丸亀城の歴史を振り返りながら、その魅力についてより詳しく触れてみましょう。 

丸亀城の歴史

高石垣
高石垣

丸亀城の歴史は、古くは室町時代初期の守護大名・細川頼之(ほそかわよりゆき)の家臣であった奈良元安(ならもとやす)が、亀山に砦を築いたのが始まりと言われています。
その後、土佐を統一した長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)が阿波・讃岐への攻撃を開始。そのため、讃岐・聖通寺城を居城としていた奈良元安は城を捨て阿波へ逃れます。
のちの1585年(天正13年)、豊臣秀吉による四国攻めで長曽我部元親が降伏し、土佐一国が安堵されると、仙石秀久(せんごくひさひで)に讃岐一国が与えられました。
しかし、仙石秀久も戸次川の戦いで敗退し、所領を没収され、追放されてしまいます。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉より讃岐国に移ることを命じられた生駒親正は、翌年1588年(天正16年)に高松城を築城することになりました。美濃国に生まれた生駒親正は、織田信長が美濃攻めを行なった1566年(永禄9年)に家臣となり、織田信長没後の1582年(天正10年)には、豊臣秀吉の家臣として「山崎の戦い」「賤ヶ岳の戦い」「小田原攻め」など、数々の戦いに参戦し功績をあげ、豊臣政権の中老になります。
こうして讃岐一国の領主となった生駒親正は、息子・生駒一正(いこまかずまさ)と共に高松城の支城として丸亀城を築きました。

1602年(慶長7年)には、生駒親正、生駒一正は高松城へ移り、丸亀城は生駒一正の息子、生駒正敏(いこままさとし)の居城となります。
しかし、翌年の1603年(慶長8年)、生駒親正は高松城で亡くなりました。1615年(元和元年)に徳川幕府が公布した「一国一城令」で、「ひとつの国がもつ城は一城のみとする」と言う命令により、丸亀城は廃城となります。

生駒氏から、西讃岐5万石程を治めていた山崎家治(やまざきいえはる)へと丸亀藩の領主が変わりました。
山崎家治は大阪夏の陣で武功をあげ、1617年(元和3年)に備中・成羽に移り、領地の新田開発や大阪城再建でも力を発揮。1619年(元和5年)に備後・三原城、1639年(寛永16年)に、肥後天草城で島原の乱で荒れた天草を立て直しました。
その功績が認められ、1641年(寛永18年)、讃岐丸亀藩に5万3千石で入国します。
一国一城令で廃城となるはずだった丸亀城ですが、山崎家冶が江戸幕府から許可を得て、1643年(寛永20年)に改修を行ないました。
現在残っているのは、山崎家冶時代の石垣で、城作りにおいても力を発揮したと言えます。

この石垣には伝説がありました。再築された際に石垣を作ったのは、名のある石工であった羽坂重三郎(はさかじゅうざぶろう)です。
日本で一番高いとされる石垣を見て、山崎家治は大いに喜びますが、そのとき羽坂重三郎が簡単に石垣を登ってみせました。
これを見た山崎家治は羽坂重三郎に脅威を感じ、井戸を掘るようにと偽り、上から石を落として羽坂重三郎を殺害してしまったと言われています。

その後、17年のときを経て丸亀城は完成しますが、山崎家冶は城の完成を見ることなく、1648年(正保5年/慶安元年)に死去しました。
翌年の1658年(万治元年)には京極高和(きょうごくたかかず)が、播磨「龍野城」より6万石で入国し、城主となります。以後、明治までは京極氏が7代の城主を務めました。
1869年(明治2年)の版籍奉還により、「丸亀城」は陸軍省の所轄となります。

丸亀城の特徴

石垣
石垣

丸亀城は、別名「亀山城」と呼ばれるように、標高約66mの亀山とその周辺の平地に、外堀と内堀で幾重にも石垣を螺旋状に築いた平山城です。
本丸を隅に置き、その周りを囲んで渦を巻くように建物が建てられていることから、渦郭式(かかくしき)の縄張(設計図)とも呼ばれています。
本丸を攻めるためには、幾重にも廻らなければならない構造となっていました。

石垣には花崗岩が積み上げられ、亀山の山麓から山頂まで三層に渡り、本丸、二の丸、三の丸と段々に積み上げられています。これらの累計した高さで、日本一の石垣と言われるようになりました。
特に、二の丸の石垣は「扇の勾配」とも呼ばれ、扇を開いたかたちのような緩やかな曲線が特徴的です。
下から見上げると、石の要塞とも思えるほど見事な建造物となっています。

石垣に対して鮮やかな白がよく映える天守は3層3階で、現存する天守のなかで最も小さな木造建築です。
また、正面には立派な大手門や御殿表門、城へ出入りする者を見張っていたと言う番所長屋が今も残されています。

石垣の種類

ハバキ石垣
ハバキ石垣

丸亀城は、石垣の城と呼ばれるほど、要塞のような石垣が見事に積み上げられた城郭となっています。
まさに、江戸時代初期に建てられた近世城郭の集大成とも言える最高水準の技術により、工夫がなされていました。また、建てられた時代によって石垣の積み方の違いなども見ることができ、技術の変遷なども伺い知ることができます。
本丸には、石垣をさらに石垣で保護するために築き上げた「ハバキ石垣」と呼ばれる工法が使用されました。
これらは山崎氏時代の石垣で、石垣の上に建造物があったため、解体せずに補強したと考えられます。
二の丸にある石垣には、拡張した跡を見ることができます。長い石と短い石を交互に組み合わせていくことで、より強固となる算木積み(さんきづみ)です。
また、大きな石と石の間に隙間なく小石が詰められるなど、均等な美しさが保たれています。

三の丸の石垣
三の丸の石垣

三の丸は見事な石垣で、中でも北側は高さ20m以上の高石垣で、算木積みの技術の進歩で、このような美しい勾配の高石垣を築くことができるようになりました。石垣の技術のひとつに切り込みハギと言われ、石を削り、加工した石を積み上げる技法があります。
また、これとは対象に自然石をそのまま積み上げるのが野面積みです。これは、南東山麓周辺で見ることができます。

丸亀城の見所

天守

天守
天守

高さ約15mの3層3階の木造天守です。現存する十二天守のうちのひとつとして重要文化財に指定されています。
この天守は、1643年(寛永20年)の山崎氏時代に改築され、1660年(万冶3年)の京極氏時代に完成しました。
屋根の部分に装飾を施す唐破風や千鳥破風といった意匠にも優れ、美しい姿を誇っています。
本丸は、山の最高所に築かれたため、市街を一望できる素晴らしい眺めです。

二の丸

本丸を守る最後の砦です。石垣の上には番頭櫓(ばんとうやぐら)や長崎櫓など4棟が建ち、城壁の敵を攻撃したことが窺えます。
また憩いの広場として整備された二の丸には、桜の木が植樹され、春には桜の名所として市民に親しまれるスポットです。
その他、水深30m以上にも及ぶ二の丸井戸があり、日本一深い井戸としても有名。現在も水を湛えています。

大手一の門

大手一の門
大手一の門

正門にふさわしい威風堂々とした作りの櫓門(やぐらもん)です。1610年(寛文10年)頃に建築され、重要文化財に指定されました。
当時は藩士が太鼓を鳴らして刻(とき)を知らせていたことから、太鼓門とも呼ばれています。櫓の中に入れば、欅の太い梁が組まれ、重厚感があり、当時の様子を物語ってくれます。

大手二の門

大手二の門
大手二の門

大手一の門より手前にあるのが大手二の門で、城郭に入る最初の入り口です。
大手一の門との間に枡形(ますがた)と呼ばれる敵を防御するための四角い空間が作られています。
1670年(寛文10年)に再建され、重要文化財に指定。門構えは高麗門という格式の高い門となっています。

丸亀市立資料館

丸亀市立資料館外観
丸亀市立資料館外観

1972年(昭和47年)に建てられた資料館です。歴史資料、農耕具などの民族資料などを展示。最後の丸亀城藩主だった京極氏の史料や郷土に関する文書、書画なども多数、収蔵されています。
改築の際に幕府に提出したとされる丸亀城の木型模型の写しは、大変貴重です。

※この記事は、2020年(令和2年)6月時点の情報に基づいて作成されています。
  • 刀剣ワールド 城/丸亀城

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