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国宝5城「犬山城」の特徴


犬山城

愛知県犬山市の犬山城は、現存12天守のひとつであると同時に、天守が国宝に指定されている城です。好天時には、天守最上階より御嶽山や岐阜城、木曽川などの絶景が望めます。また犬山城は城下町と一体となった総構えの城郭。城下町には古い町並みが残されていて、歴史の流れを体感できます。
「白帝城」とも呼ばれる犬山城は江戸時代の儒学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)が、李白の漢詩「早発白帝城」に由来して名付けた城。木曽川沿いに位置する犬山城を、長江流域の白帝城になぞらえたと伝わっています。
ここでは、犬山城の魅力をご紹介。歴史や特徴、見どころを詳しく説明していきましょう。

犬山城の歴史

「犬山城」は1537年(天文6年)に、「織田信長」の叔父にあたる織田信康が、前身である木之下城から城郭を移して築城したと言われています。織田信康は兄・織田信秀が美濃国(現在の岐阜県南部)の「斎藤道三」を攻めた「加納口の戦い」に参加し、命を落としました。
その後、城主となった息子・織田信清は、織田信長と領土を巡って対立し、犬山城は落城。甲斐国(現在の山梨県)へと逃亡し、代わりに織田信長の家臣・池田恒興(いけだつねおき)が入城しました。
1582年(天正10年)に「本能寺の変」が起き、織田信長が討たれると、その息子・織田信雄(おだのぶかつ)の家臣である中川定成(なかがわさだのり)が城主となります。
織田信長の死後、「豊臣秀吉」が台頭しますが、これを良しとせずに、警戒していた織田信雄は「徳川家康」に助けを求めることに。1584年(天正12年)徳川家康はこれに応え、援軍を送りますが、犬山城は、豊臣秀吉方の家臣となった池田恒興による奇襲攻撃を受け、占拠されます。豊臣秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍が争った「小牧・長久手の戦い」は、戦場を変えたり、膠着状態を続けたりしながら、約8ヵ月続きました。この戦いにおいて、池田恒興は死亡。戦いは和睦に終わり、犬山城は織田信雄の手に戻って、再度家臣の中川定成が城主を務めることとなりました。
しかし織田信雄は、豊臣秀吉に移封を命じられた際に拒否したことで、豊臣秀吉の怒りを買い、下野国(現在の栃木県)へと追放されてしまいます。1590年(天正18年)より城主は織田信雄の家臣ではなくなり、度々交代することとなりました。1595年(文禄4年)に城主となった石川光吉(いしかわみつよし)は「関ヶ原の戦い」で敗れた西軍側であったことから、1600年(慶長5年)、戦いの勝者・徳川家康の息子である松平忠吉(まつだいらただよし)の家老・小笠原吉次(おがさわらよしつぐ)が入城します。
その後も城主は変わり、1617年(元和3年)からは、尾張藩の重臣・成瀬正成(なるせまさなり)が犬山城主に。これより明治時代まで、成瀬家が城主を務めました。
明治時代に入ると、犬山城は愛知県の所有物となり、天守を除いたほとんどの建造物が取り壊されるという憂き目に。さらに1891年(明治24年)には濃尾大震災が起き、天守は半壊。そんな状態になりながら犬山城は、修理を条件に、無償で成瀬家に戻ります。天守は無事修復され、昭和時代になると国宝に指定されました。
成瀬家の所有物という「全国唯一の個人が所有する城」だった犬山城ですが、2004年(平成16年)からは「財団法人犬山城白帝文庫」が所有しています。

犬山城の特徴

犬山城と木曽川
犬山城と木曽川

犬山城は、典型的な「後堅固の城」(うしろけんごのしろ)。小高い山の上に位置し、背後に木曽川を臨む犬山城は、川から城までが断崖となっているため、背面から攻め入ることが困難でした。曲輪は、本丸から杉の丸、樅の丸、桐の丸、松の丸が南に向かって階段のように連なっています。また城郭は、城下町と一体となっている「総構え」の構造。城だけでなく城下町も堀で囲まれていたため、防御にも優れていました。

犬山城の天守は、いつ築かれたのか断定されていません。諸説ありますが、何度か天守に増改築が加えられて、16世紀末~17世紀はじめの頃に完成したと考えられています。天守は3層4階で地下2階の望楼型。1階は4つの部屋が中央にあり、「武者走り」と呼ばれる武士たち用の通路がそれらを取り囲んでいるという造りです。

犬山城の廻縁と高欄
犬山城の廻縁と高欄

2階の「武具の間」には武具棚が備えられており、こちらにも武者走りがあります。
屋根裏階である3階を抜けると、江戸時代からあると言われる「赤いじゅうたん」が敷かれた最上階・4階に到着。そこにはベランダのような廻縁(まわりえん)と、その手すりである高欄(こうらん)が巡っており、廻縁に出ると360度の絶景が楽しめます。この廻縁に出られるのは「高知城」と犬山城だけ。とても貴重な存在です。また、亀の甲羅の上に「魔除け」の力を持つと伝わる桃が載った瓦を見つけることもできます。

唐破風と華頭窓
唐破風と華頭窓

犬山城は天守の外観も特徴的。南北には弓なり状の「唐破風」(からはふ)、東西には三角形の「入母屋破風」(いりもやはふ)が取り付けられています。1階と2階は「大壁造り」で柱が外側から見られなくなっている一方、最上階は柱や梁を見せる「真壁造り」(しんかべづくり)。格式を重視した造りです。
天守最上階外壁にあるのは「華頭窓」(かとうまど)。「窓」と呼ばれていますが、犬山城の華頭窓は開閉することができません。木枠のみの「飾り」で、真壁造りと同様に、格式を重んじて、取り付けられたと考えられています。

犬山城とその周辺の見どころ

戦国三英傑にゆかりのある犬山城。ここでは、犬山城とその城下町にある、数多くの見どころをご紹介します。

付櫓(つけやぐら)

付櫓
付櫓

天守の南東と北西に位置する櫓。敵が天守入り口に差し掛かった際に、側面から攻撃を加えることができます。付櫓を有する天守の構成は「複合式」と分類され、犬山城以外の現存天守では、「備中松山城」「彦根城」「松江城」の天守がこの「複合式」です。
1891年(明治24年)の濃尾大震災にて崩壊してしまいましたが、1959~1963年(昭和36~40年)の解体修理で復元されました。
天守とつながっており、内部を見学することができます。

石落とし

石落としの間
石落としの間

石垣を登ってくる敵に対して石を落とし、侵入を防いでいたと言われている設備。犬山城の「石落とし」は石垣から突き出しており、外観の形状は下部にいくほど広がっている「袴腰型」(はかまごしかた)です。天守1階では「石落としの間」が見られます。

神木「大杉様」

大杉様
大杉様

犬山城天守の東にある杉の木です。樹齢約650年で天守と同じか、それ以上の高さを誇っていたと伝わっています。台風のときには風よけ、落雷時には身代わりになって城を守る「御神木」でした。1965年(昭和40年)頃に枯れてしまったあとは、しめ縄を施して祀ってあります。

愛宕神社(あたごじんじゃ)

犬山城と縁が深いと言われる「木之下城」の跡地に建てられた神社。木之下城は1469年(文明元年)に築城されたと伝わっています。1537年(天文6年)、犬山城の位置に城郭が移されて廃城となりました。木之下城の遺構はありませんが、神社の本殿の位置に城の主殿があったと推測されています。
愛宕神社入り口にある手水鉢に刻まれているのは、「白厳水」という文字。この「白厳」というのは、犬山城へと城を移した織田信康の号名です。

城とまちミュージアム(犬山市文化史料館)

城とまちミュージアム
城とまちミュージアム

犬山城とその城下町について、情報を発信している施設です。
ホールにあるのは、犬山城と城下町を模した巨大なジオラマ。1840年(天保11年)の犬山祭が再現されており、当時に思いを馳せることができます。また江戸時代・昭和時代・平成時代と3世代の鯱瓦が間近で見られる他、江戸時代に犬山城主を務めた成瀬家由来の工芸品や、犬山ゆかりの歴史資料なども展示。犬山の歴史に触れられます。

犬山城の城下町

犬山城の城下町
犬山城の城下町

江戸時代から町の区画がほぼ変わらず残る、犬山城の城下町。「鍛冶屋町」「魚屋町」といった町名が見られますが、これは犬山城築城時に職人や商人たちを近くに住ませ、町の発展を目指した名残だと伝わっています。
犬山城のふもとに位置しているのは、「三光稲荷神社」。犬山城主だった成瀬家の守護神です。その他、古い町屋やお屋敷、犬山祭で使用される車山を収めた蔵など、見どころの多いスポットとなっています。

国宝茶室「如庵」(じょあん)

国宝茶室「如庵」
国宝茶室「如庵」

犬山城の東に建つ名鉄犬山ホテルの敷地内には、国宝の茶室「如庵」があります。如庵は、無駄を削ぎ落とした端正な外観が特徴的。独特の世界観を持った、茶道文化を語るうえで大変貴重な遺構です。その如庵を建てたのは、「織田有楽斎」(おだうらくさい)。織田信長の弟「織田長益」として、また、武家茶道「有楽流」の開祖として知られています。

※この記事は、2020年(令和2年)6月時点の情報に基づいて作成されています。

施設の紹介動画

刀剣が収蔵されている犬山城を紹介するダイジェスト動画をご覧頂けます。

  • 犬山城の施設詳細ページはこちらから

    犬山城へ訪れる際には、役立つ口コミや画像が多数掲載されている
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  • 犬山城公式サイト

    犬山城の新着情報やイベント情報については、公式サイトをご参照下さい。