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重文7城「高知城」の特徴

高知城

優美な姿から「南海道随一の名城」と謳われる高知城は、「現存12天守」のひとつ。別名を「鷹城」と言い、これは土佐漆喰の白壁と瓦葺の灰色が鷹の羽に似ていることが由来です。
高知城は1601年(慶長6年)から10年かけて、山内一豊によって築城されました。1度は大火によりそのほとんどが焼失した高知城ですが、1753年(宝暦3年)には、ほぼすべてが再建されています。
日本で唯一、天守や御殿といった本丸全体の建造物が江戸時代から現存している高知城。天守には石落としや忍び返しなどの、敵襲に備えた様々な仕掛けが施されています。
ここではそんな高知城についてご紹介。歴史や特徴、高知城にかかわるスポットなどについて、詳しく説明していきます。

高知城の歴史

「高知城」は、南北朝時代に築かれた大高坂城が前身だったと考えられています。高知城のある土佐国(現在の高知県)は、戦国時代、「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)によって統治されていました。当初、別の城を居城としていた長宗我部元親ですが、1588年(天正16年)に大高坂城を拠点していた時期があります。しかし大高坂城は洪水が多かったため、新たに近隣の浦戸城へと移りました。

1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が勃発。大高坂城主であった長宗我部元親の四男・長宗我部盛親は西軍についていたため、「徳川家康」により領土は没収されてしまいます。その代わりに、東軍として参加していた「山内一豊」が土佐国に入り、最初は浦戸城を居城としました。入城の前、浦戸城の明け渡しに反対した長宗我部家の旧臣たちは一揆を起こしており、この一揆に激怒した徳川家康による鎮圧で、多くの血が流されています。また入城祝いとして桂浜で開かれた相撲大会では、反抗分子が捕えられ処刑されるなどの弾圧もありました。

山内一豊は1601年(慶長6年)、大高坂城の地に近世城郭とした城を築城。城のある土地が河川に挟まれていたため、「河内」と改名され、これが高知城と呼ばれる由来となります。築城の指揮にあたったのは、百々越前守安行(どどえちぜんのかみやすゆき)で、治水と築城の名手でした。 高知城は着工され、2年後の1603年(慶長8年)に本丸と二ノ丸が完成し、山内一豊は入城式を行ないました。10年後の1611年(慶長16年)には三ノ丸が完成。これにより、ようやくほぼすべての城郭が完成したのです。山内家は明治に至るまで16代、この高知城の城主を務めました。

1727年(享保12年)には大火により城郭の大半が焼失しますが、2年後の1729年(享保14年)から約25年の年月をかけて大半の建造物が再建されました。明治になると廃城令により、本丸や追手門などの一部を残し、多くの建造物が取り壊されています。そして、1874年(明治7年)には城郭全体が高知公園として開放されることとなりました。

高知城の特徴

本丸御殿内部
本丸御殿内部

高知城の特徴は、城の中心・本丸全体の建造物が江戸時代から残っていることにあります。特に貴重なのは「懐徳館」(かいとくかん)と呼ばれる本丸御殿。天守も本丸御殿も江戸時代から現存しているのは高知城のみです。高知城の城主は二ノ丸御殿に居住し、本丸御殿は来客との正式な対面所として使われていました。書院造りの御殿内部では、波をモチーフにした欄間(らんま)や、城主を護衛する武士の隠れ場所・武者隠しなどが見られます。

天守は独立式の3層6階建てで、本丸御殿と繋がった珍しい構造。江戸時代中期に焼失したあと再建された天守で、建物の屋根の上に物見用の建物を載せた望楼型です。この形式は江戸時代初期までの天守に見られるため、焼失前の天守を再現したと考えられています。最上階に巡っているのは、廻縁(まわりえん)というベランダのような縁側と、その手すりである高欄(こうらん)。これらは初代城主・山内一豊にとってかつての居城「掛川城」を模して作られたと言われており、城下を360°見渡すことができます。高欄についているのは「擬宝珠」(ぎぼし)。玉ねぎのような形をした格式の高い飾りです。

忍び返し
忍び返し

高知城が再建されたのは太平の世になってからですが、戦う・防御するための仕掛けが多く設置されました。全国で唯一残っている「忍び返し」は、先のとがった鉄の棒が突き出しているという仕掛けです。天守の北面に設けられていて、石垣を登ってくる敵を撃退するために使われていました。天守以外にも仕掛けは施されています。本丸と二ノ丸の間にある「詰門」(つめもん)は、敵が簡単に通り抜けることができないように、入口と出口が筋違いなのがポイント。また縄張りは天守にたどり着きにくいように工夫がされていて、本丸までの最短だと思われるルートを進んでも、実は本丸から遠ざかるような構造になっています。

高知城の狭間
高知城の狭間

さらに丸・三角形・四角形と様々な形の穴(狭間)が見られるのは「矢狭間塀」。その隙間から鉄砲や矢で敵に攻撃できるという構造です。本丸の塀には「武者窓」と呼ばれる設備も見られます。高知城の武者窓は、塀の上の方に取り付けられた横長の空間。狭間は小さくて敵の全容を把握することが難しいですが、横長の武者窓があることによって物見の範囲が広がります。
このように高知城は、江戸時代に再建されたにもかかわらず、「戦闘のための城」としての仕掛けが設けられているのです。

高知城とその周辺の見どころ

天守や本丸御殿以外にも魅力がたくさんの高知城。こちらでは国内最大級の騎馬銅像や高知城ならではの排水設備などをご紹介していきます。

①国内最大クラスを誇る騎馬銅像

山内一豊の騎馬銅像
山内一豊の騎馬銅像

高知県立図書館の前に鎮座する、土佐藩初代藩主・山内一豊の騎馬銅像。台座を入れると9.4mにもなり、騎馬像としては国内最大クラスです。
山内一豊は尾張国(現在の愛知県西部)出身の武将。「織田信長」、「豊臣秀吉」、徳川家康の三英傑に仕えていました。
この騎馬銅像は1913年(大正13年)に、高知県内にある「坂本龍馬像」「中岡慎太郎像」、高知城内にある「板垣退助像」を手掛けた本山白雲によって制作。戦時中、弾丸などの材料とするために1度取り壊されましたが、1996年(平成8年)に再建されています。

②千代と馬の像

千代と馬の像
千代と馬の像

杉ノ段に位置する、山内一豊の妻・千代の像です。千代は夫を支えた「内助の功」で知られています。
あるとき、山内一豊は名馬と出会いました。しかしその名馬は高額であったため手が出せません。そこで千代は、嫁入りの持参金だった十両を差し出しました。購入した名馬は、武家の行事であり、軍事パレードとしての一面もあった「馬揃え」において織田信長の目にとまり、これがきっかけで山内一豊は出世していったと言われています。

③高知城ならではの排水対策

石樋
石樋

1年を通して雨量が非常に多いことで知られる高知県。そのため高知城には、排水のために「石樋」(いしどい)が設けられています。この「石樋」は、泥水が石垣に浸入して石垣が崩れるのを防ぐために、雨水を集めて排出させるという高知城ならではの設備。突き出した樋から石垣に直接当たることなく排水させる仕組みで、石樋の下には地面を保護する水受け用の敷石もあります。
また本丸の外側の塀や、建物の裾に見られるのは、「長押型水切り」(なげしがたみずきり)。こちらも水が入ってくるのを防ぐための工夫です。

④追手門

追手門
追手門

巨石が積まれた石垣の上に堂々と建っている高知城の表門。石垣には工事の際に刻まれたと推測される「エ」「シ」といった文字も見られます。
門と矢狭間塀とで枡形となっており、三方向からの攻撃が可能です。また門の内部にあるのは「石落とし」。登ってくる敵に対して石を投げたり、槍で突いたりすることができます。
また追手門から東にのびる「追手筋」では、毎週日曜に「日曜市」を開催。1690年(元禄3年)から300年以上つづく、日本最古の街路市となっています。

⑤青銅製の鯱(しゃちほこ)

高知城の鯱
高知城の鯱

高知城には、追手門に瓦製の鯱と、天守に4個の青銅製の鯱があります。「鯱」とは、龍の頭を持つ想像上の魚で、海に棲む火除けの守り神として、城郭や寺院に使われるようになりました。天守最上階から外を見下ろすと、美しい鯱の姿を間近に見ることができます。

⑥長宗我部時代の石垣

1588年(天正16年)に長宗我部元親が大高坂城に居城を移した際、築かれたと推測されている石垣です。2000年(平成12年)から行なわれていた調査によって、三ノ丸から出土しました。発掘された桐紋瓦は、豊臣家より拝領した瓦だと考えられています。1585年(天正13年)、長宗我部元親は豊臣秀吉による四国攻めに降伏し、従うこととなっていました。この桐紋瓦から、豊臣家との結び付きがうかがい知れます。

⑦八幡宮

高知市はりまや町に遷座した八幡宮
高知市はりまや町に遷座した八幡宮

1871年(明治4年)に、ご神体を高知市はりまや町に移すまでは春日大明神や熊野権現などが祀られており、城内八幡宮と呼ばれていました。現在は小さな祠が残っています。
高知城が築城されてからは、土佐藩主によりあつく信仰されていたことに加え、町民の氏神としての役割もあり、9月1日~10日にかけては町民たちも参拝することが可能でした。明治時代になると、町民たちの願いによって遷座します。戦時中は大きな被害を受けましたが、町民の支援もあって再建しました。

⑧鉄門跡

鉄門跡
鉄門跡

三ノ丸入り口にある門の跡です。扉に鉄板が多数打ち付けられていたことが名前の由来となっています。門を囲んでいるのは「打込接」(うちこみはぎ)によって積まれた堅固な石垣。打込接とは、石を加工して石同士の隙間を減らし、高く急な石垣を築いていくという積み方です。

⑨山内容堂ゆかりの地

山内容堂(やまうちようどう)は、土佐藩15代藩主です。藩主時代はその政治的手腕から、幕末の四賢候と呼ばれていました。1867年(慶応3年)に時の将軍・徳川慶喜に大政奉還を申し立てた人物だと言われています。また詩歌と酒を愛しており、自らを「鯨海酔候」(げいかいすいこう)と称していました。
高知城の近くに「山内容堂公誕生之地」の石碑がある他、城近くの温泉旅館では、薩摩藩主の使者として訪れた「西郷隆盛」と謁見した跡地が見られます。

⑩高知城歴史博物館

高知城歴史博物館の外観
高知城歴史博物館の外観

高知城入場口のすぐ脇にある高知城歴史博物館は、「城博」(じょうはく)とも呼ばれている博物館です。国宝や重要文化財を含む土佐藩主・山内家伝来の資料およそ67,000点を中心に、土佐藩や高知県にかかわる美術工芸品や、貴重な歴史資料が展示されていて、徳川家の葵紋が刻まれた雛道具、山内一豊の書状などが見られます。また注目したいのは4代藩主・山内豊昌(やまうちとよまさ)の兜と伝わる、兎の耳のような変わり兜。山内家には奇抜な兜が多く伝わっています。

最上階にあるのは、追手門から天守までが一望できる展望ロビー。現存天守と追手門が1枚の写真に収まることは全国的にも珍しく、撮影スポットとなっています。また追手門前からでも天守と追手門を収めた写真が撮影可能です。

⑪「日本三大夜城」と呼ばれるライトアップ

ライトアップされた高知城
ライトアップされた高知城

白漆喰の「総塗籠式」が美しく映える高知城。夜間は毎日22時までライトアップされており、大阪城高田城と並んで「日本三大夜城」にも選ばれています。このライトアップは1986年(昭和61年)に、高知市にあるナイトクラブの社長が提案したのがきっかけで始まりました。

季節ごとに異なる夜間イベントも特徴的です。春は夜桜のライトアップが城を彩る「高知城花回廊」、夏は風鈴とキャンドルが美しくマッチしたイベント、秋はろうそくの灯りと城のライトアップのコラボレーション、冬は本丸や二ノ丸にもイルミネーションが施されるイベントが行なわれています。

⑫土佐藩の歴史とも縁のある「ひろめ市場」

ひろめ市場
ひろめ市場

高知城近くにあるグルメ・ショッピングスポット「ひろめ市場」。幕末、4代・土佐藩主に仕えていた家老「深尾弘人蕃顕」(ふかおひろめしげあき)がその名の由来です。深尾弘人蕃顕は寛大な名家老で領民からも慕われていて、明治維新によって屋敷がなくなっても屋敷跡一帯は「弘人屋敷」(ひろめやしき)と呼ばれていました。そして1998年(平成10年)、高知ならではの食・商い文化を広める場「ひろめ市場」が作られたのです。
個性豊かな60以上もの店舗が軒を連ね、地元の人たちから観光客までが集まる施設となっています。

番外編)高知城そっくりのキリスト教会

ハワイ州ホノルルにある「マキキ聖域教会」。1904年(明治37年)に、日本人移民の牧師・奥村多喜衛が開いた教会です。奥村多喜衛の出身地である高知県にちなんで、1932年(昭和7年)に高知城天守を模した外観の教会が建築されました。
ハワイにおける日本人移民社会に貢献した奥村多喜衛は、「侍牧師」とも呼ばれています。

※この記事は、2020年(令和2年)4月時点の情報に基づいて作成されています。
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