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城情報

長野県にもある五稜郭

五稜郭、というと多くの人がまず思い浮かべるのは北海道函館市にその跡を残す五稜郭ですが、本来五稜郭とは城郭における曲輪配置の分類のひとつとしても用いられていた言葉でした。ちなみに、この函館市の五稜郭は、建造中には亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)と呼ばれており、函館の五稜郭以外にも日本には五稜郭の城郭が存在していました。それが長野県佐久市にその跡を残す龍岡城(たつおかじょう)です。

五稜郭とは

五稜郭とは

剣の先のようなかたちをした稜堡(りょうほ)を外側に向けて、星形に配した縄張りをもつ城郭が五稜郭です。この星形をした要塞は、もとは15世紀のイタリアで生まれた物です。外部を多角的に見ることができるため、そこにそれぞれ銃を構えた守備隊が攻撃に備え配置されていました。戦の中心が火器中心となっていくと、この縄張りをもった城が多く建てられるようになりました。敵の目標になる建造物が中には建てられず、函館の五稜郭では櫓なども築かれていないのが特徴です。日本には北海道函館市の五稜郭と四稜郭(しりょうかく)、そして長野県の龍岡城があります。これらはいずれも、西洋の築城様式が日本に伝わった幕末に築かれました。

龍岡城

龍岡城の築城が開始したのは1864(元治元)年のことでした。築城にあたった田野口藩は16,000石の小さな藩でしたが、のちに龍岡藩とあらためられます。田野口藩の藩主は松平乗謨(まつだいらのりかた)で、その際に乗謨が築城したのがこの城です。乗謨は、以前に幕府が招いたフランス人士官から築城方法を学んでいました。そして陸軍総裁に任じられると、領地に住む人々を集め龍岡城の築城に着手します。そのときにかかった費用は当時の金額でおよそ4万円にのぼると言われています。

龍岡城は3年をかけて完成しました。1万坪の広さをもった洋式五稜郭のこの城は当時でも非常に珍しい物で、函館市にある五稜郭と龍岡城だけがこの縄張りで建てられた城郭です。龍岡城の特徴は塁が低く、また堀の幅も狭くすべてを覆っている訳ではありませんでした。これにより龍岡城は西洋の城郭の様式を取り入れようとした日本の城郭における、実験的要素が強かったのではないかと見られています。明治に入り、廃城令が公布されることで龍岡城は取り壊されることになります。現在は国の史跡にも指定されており、石垣の大部分と一部の水堀、そして台所櫓が現存しています。

龍岡城五稜郭に携わった松平乗謨

龍岡城五稜郭の案内板
龍岡城五稜郭の案内板

三河国奥殿藩3万石の藩主であった松平乗謨は幼少のころから西洋について関心があり、1853年(嘉永6年)のペリー来航に感化されると、日本の軍備強化を考えるようになります。松平乗謨は、これからの戦争では刀よりも鉄砲が主力になると考えるなど、先見の明もありました。やがて、藩領信濃田野口を拠点とすべきと考えた松平乗謨は、本拠を信州龍岡の地に築城するよう命じます。この築城の際に、縄張りとして取り入れたのが五稜郭です。

1867年(慶応3年)に龍岡城が完成すると、新政府軍との戦いに向け準備を進めていました。ところが1868年(慶応4年)に戊辰戦争が始まると幕府軍は敗北、徳川慶喜が大坂城から江戸に退去したことで旧幕府軍は戦意喪失し、新政府軍が有利になってしまいます。
松平乗謨はこの状況を鑑みて、老中と陸軍総裁を辞任。松平姓を捨て「大給恒(おぎゅう ゆずる)」と改名すると、新政府軍に従うこととなります。こうして明治維新を迎えたことで、龍岡城は役目を果たすことなく解体され、城の囲いである五稜郭だけが残されました。

松平乗謨は1877年(明治10年)になると、西南戦争の悲惨な状況を見かねて、のちの日本赤十字社となる「博愛社」を設立します。現在、長野県の五稜郭には「日本赤十字社をつくり育てた人」として、松平乗謨の銅像が置かれています。

長野県の五稜郭と函館の五稜郭の違い

龍岡五稜郭
龍岡五稜郭

日本に現存する五稜郭は、北海道函館市の五稜郭と、長野県佐久市にある五稜郭だけだと言われています。この2つの五稜郭の違いはなんでしょうか。

まず、違いのひとつに、五稜郭の大きさがあります。長野県の五稜郭は、函館市にある五稜郭に比べておよそ半分ほどの大きさしかありません。

次に建築された時期ですが、こちらはほぼ同時期で長野県の五稜郭は慶応2年(1866年)12月に石垣と土塁が竣工し、慶応3年(1867年)4月には城郭内に御殿が完成しました。一方、函館の五稜郭は安政4年(1857年)に着工し、元治元年(1864年)にはほぼ工事が完了し、箱館山の山麓市街地にある旧役所が移転したと言われています。

ところが、2つの五稜郭は完成後まもなく不運な結末を迎えるのです。明治維新を迎えたことにより、明治5年(1872年)に龍岡城は解体。現在は小学校の校庭になっており、隣接した御台所櫓が現存しているだけとなりました。また、江戸幕府の終わりと共に、蝦夷地統治の中心であった函館の五稜郭も幕を降ろすこととなったのです。

龍岡城五稜郭の見どころ

佐久市歴史の里
佐久市歴史の里

長野県にある龍岡城五稜郭の入口には石碑が建ち、堀にも当時の面影を残す橋がかかっているため、五稜郭の中に入る前から当時の雰囲気を楽しむことができます。
なお五稜郭の中にあった龍岡城が解体されたあとは、田野口村の尚友学校が移転しました。
現在は、佐久市立田口小学校が建てられており、校庭も龍岡城五稜郭の中にあります。

龍岡城五稜郭の中には「であいの館」と呼ばれる龍岡城関連の展示室があり、規模は決して大きくはありませんが、五稜郭に関する写真や図を多数見ることが可能です。龍岡城五稜郭を訪れた際には見学とあわせて、「であいの館」で当時の様子を学んでみてはいかがでしょうか。

他にも、龍岡城の概要を記した案内板もあります。概要には龍岡城の着工時期や築城に「稜堡式築城法」を用いたことなどが記されていますが、城の竣工をはじめた段階から計画はうまく進んでいなかったようです。建築中に時代が移り変わっていく様子も分かります。

また長野県の五稜郭は、函館市の五稜郭にくらべ半分ほどの大きさなので、五稜郭周辺の堀に沿って散策するのもよいでしょう。一般的な城の堀ではなかなか見ることのできない、角度のついた塀は必見です。

そして五稜郭最大の見所と言えば、その独特の形の全景でしょう。五稜郭の中からは見ることはできない、壮大なスケールは圧巻です。長野県の五稜郭には設備の整った展望台のような施設はありませんが、山へ向かう林道の入口に「五稜郭展望台」の案内があります。悪天候の日は足場が悪く、車が必要になるなど条件がありますが、「五稜郭展望台」は五稜郭の星型を確認することができる数少ない場所です。

さらに、春になると堀に沿って植えられた桜が見事に咲き誇り、長野県有数の桜の名所としても知られています。桜の種類はソメイヨシノやベニヤマザクラがあり長期間花見を楽しむことが可能です。