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重文7城「丸岡城」の特徴


丸岡城

福井県坂井市の小高い丘に建つ丸岡城は、天守が重要文化財の指定を受けている名城です。城が敵襲にあった際に大蛇が現れて霞を吹き出し、城を守ったという伝説から「霞ヶ城」とも呼ばれています。織田信長の家臣・柴田勝豊(しばたかつとよ)が築城し、柴田家の家臣・安井家清が城主に。その後、城主は豊臣家、徳川家の家臣へと移り、明治維新に廃城となりました。丸岡城の天守は、江戸時代に建てられた北陸地方で唯一の「現存12天守」です。現在の天守を取り囲んでいる霞ヶ城公園は、約400本のソメイヨシノが植えられた桜の名所。桜が霞のようになって城を囲んで幻想的な景色を生み出し、多くの人が足を運ぶ観光スポットになっています。ここでは丸岡城の魅力について詳しくご紹介。戦国時代の雰囲気漂う丸岡城を、歴史や特徴といった面から紐解いていきます。

丸岡城の歴史

丸岡城は1576年(天正4年)、柴田勝豊によって築城されました。その前年、織田信長が越前国(現在の福井県北東部)を平定した折にその領地を柴田勝家に与えますが、柴田勝豊はその柴田勝家(しばたかついえ)の甥にあたります。1582年(天正10年)、織田信長は「本能寺の変」で死去。跡継ぎを決める清須会議が開かれ、領地の分配が行なわれました。この結果、柴田勝豊が近江国(現在の滋賀県)に移ることになると、柴田勝家は重臣の安井家清を丸岡城の城主としたのです。翌年1583年(天正11年)に起きた織田信長の家臣による覇権争い「賤ヶ岳の戦い」で安井家清は死去。柴田勝家が豊臣秀吉に敗れて自害したことにより、越前国は豊臣秀吉方の丹羽長秀が治めるようになります。丹羽長秀は家臣・青山宗勝(あおやまむねかつ)を丸岡城の城主としましたが、その後、「関ヶ原の戦い」において西軍であった青山宗勝は城主の座を奪われ、代わりに福井藩の家老・今村盛次(いまむらもりつぐ)が入城しました。

しかし今村盛次は1612年(慶長17年)に起きた、福井藩内の派閥争い「越前騒動」(久世騒動)により失脚。新たに本多成重(ほんだなりしげ)が城主に迎えられました。現在残されている石垣はこのころにつくられた物と考えられており、この時期に現在の天守が築城されたと言われています。また1624年(寛永元年)、福井藩から独立して丸岡藩が成立。本多成重は初代丸岡藩主となったのです。

4代目丸岡藩・本多重益(ほんだしげます)の頃、政治が乱れ始めます。本多重益は酒に溺れ、政治を家臣たちに丸投げしていました。そのため、家臣の間で、権力をめぐる争いが勃発。幕府の介入によって解決はしましたが、本多重益は城主の座を奪われ、1695年(元禄8年)に有馬清純(ありまきよずみ)が丸岡藩の藩主となりました。このあと1869年(明治2年)に至るまで、有馬氏を城主とした時代が続きます。
明治になると廃城令により天守のみが残されることとなりました。そして1948年(昭和23年)の福井地震で天守は倒壊。可能な限り、元の部材を使用して再建されました。

2015年(平成27年)から3年間、坂井市教育委員会は丸岡城の学術調査を行なっています。この調査により、天守の築造年代が1624~1645年(寛永元年~正保元年)である可能性が高いことが判明。また屋根に取り付けられている懸魚(げぎょ)や破風板に漆が塗られていたことや、鯱に金箔が貼られていたこと、石瓦になる前はこけら葺きであったことも分かりました。

丸岡城の特徴

笏谷石が使われている屋根
笏谷石が使われている屋根

丸岡城は、本丸と二の丸、三の丸などの他の曲輪(区画)が連なっている「連郭式」の平山城です。また、石垣の上に外観は2重、内部は3層の独立式望楼型(ぼうろうがた)の天守を備えています。天守の最高階は「天井の間」。四方に開かれた窓から、日本海や三国の海岸を望むことができます。丸岡城の特徴として挙げられるのが、笏谷石(しゃくだにいし)で葺かれた屋根。これは丸岡城が豪雪地帯に建てられているため、普通の瓦では寒さに弱く割れてしまうことがあり、寒さに強い笏谷石が用いられたということです。

この石瓦は全部で約6,000枚も使われており、重さは屋根全体で120tにも及びます。笏谷石は、福井県の足羽山のみで採掘される凝灰岩。現在は採掘されていない、大変貴重な岩石です。水に濡らすと青色に変化するため、丸岡城は雨が降ると表情が変わる城としても知られています。

石垣は野面積み。野面積みとは、石を加工せずにそのまま積んでいく、高度な技術を要する手法です。隙間が多いため、排水が促され、大雨や大雪でも崩れることはありません。天守を取り囲んでいた五角形の内堀は、明治時代に埋め立てられてしまいました。かつての外堀は現在も水路として残っています。

実用性重視の丸岡城

実用性を重視した構造となっている丸岡城では、敵兵に備えた仕掛けや雨水を防ぐ工夫がなされています。

①狭間(さま)・石落とし・階段

「狭間」は天守の壁にある小窓のことで、丸岡城には様々な形や大きさの小窓が点在しています。この小窓から敵兵に対して、鉄砲を打ったり、弓を引いたり、石を落としたりして、防御していました。また天守の1階には、石垣を登る敵兵に向かって真上から石を投げ落としていた「石落とし」と呼ばれる隙間が見られます。丸岡城は、その階段の角度も特徴的。現在は、観光客用にロープが設置されるほどの急勾配となっており、その角度は60°以上です。これは敵兵の侵入を防ぐためだったとの説があります。

②腰屋根(腰庇)

腰屋根
腰屋根

「腰屋根」は、石垣と天守の間にある小さな板張りの屋根です。丸岡城天守は、土台の石垣よりひと回り小さく作られていました。この構造だと、石垣と天守の間に隙間ができて、雨水が入ってきてしまいます。そのため「腰屋根」で隙間を埋めて、雨水の浸入を防止していたのです。

丸岡城と人柱「お静」

お静慰霊碑
お静慰霊碑

丸岡城には、人柱となった「お静」の伝説と、この伝説にかかわる「堀の藻刈りに降る雨は、いとしお静の血の涙」という歌が伝えられています。
天守の石垣を造っていた頃、何度積んでも崩れてしまうので、なかなか築城が進みませんでした。そのため人柱を立てることとなったのです。人柱に選ばれたのは、貧しい生活を送っていた片目の見えない「お静」。お静は自分の子どもを武士に取り立ててもらうことを約束に、人柱になることを引き受けます。人柱を立てた甲斐あってか、丸岡城は無事築城されましたが、約束は反故にされてしまいました。これは当時の城主・柴田勝豊が近江国に移ることになったためと言われています。

このあと毎年、堀から水があふれるほどの春雨が降りました。人々は約束が果たされなかったお静の恨みによる雨だと考え、慰霊の祠を作ったのです。
お静が人柱となった4月は、毎年長雨に見舞われると言われており、この雨は「お静の涙雨」と呼ばれるようになりました。
また、お静は大蛇となって丸岡城内の井戸に住み着いたとの伝説もあり、この井戸は「蛇の井」と名付けられています。

丸岡城と「日本一短い手紙」

一筆啓上 日本一短い手紙の館
一筆啓上 日本一短い手紙の館

「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」は、短い文のなかで用件を簡潔かつ分かりやすく伝えており、手紙の手本だと言われています。これは徳川家康の家臣として活躍していた本多作左衛門重次(ほんださくざえもんしげつぐ)が、1575年(天正3年)の「長篠の戦い」にて妻に送った手紙文です。この「お仙」というのは、本多作左衛門重次の息子で初代丸岡藩主・本多成重の幼名「仙千代」のこと。丸岡城の登城口にはこの文が刻まれた「一筆啓上碑」が建てられています。また丸岡城のある坂井市ではこの手紙にちなんで、「日本一短い手紙 一筆啓上賞」を毎年開催。40文字に思いを込めた応募作品は、丸岡城の駐車場や本丸周辺、丸岡城近くにある「一筆啓上 日本一短い手紙の館」で見ることができます。

※この記事は、2020年(令和2年)6月時点の情報に基づいて作成されています。
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  • 丸岡城公式サイト

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