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二条城の特徴

京都市中京区に建つ二条城は、江戸幕府の初代将軍・徳川家康が築城を開始した城です。徳川家康と豊臣秀頼の会見や、江戸幕府の終焉へとつながる大政奉還の表明など、様々な歴史の舞台となりました。明治時代には皇室の別邸・二条離宮となっていたことから、正式名称を「元離宮二条城」と言います。
「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産にも登録された二条城。武家風書院造を代表する建築で、国宝に指定されている豪華絢爛な二の丸御殿や、桂宮家の遺構として貴重な本丸御殿、設計の異なる3つの庭園などがあり、多くの観光客が訪れています。
ここでは二条城について詳しくご紹介。歴史や特徴、見どころについて触れていきましょう。

二条城の歴史

二条城
二条城

「二条城」は「徳川家康」によって、1601年(慶長6年)に築城が命じられた城です。京都御所の守護と将軍が京都に上った際に宿泊する目的で作られました。1603年(慶長8年)徳川家康が入城。そこで征夷大将軍の就任を祝う会が開かれます。
1611年(慶長16年)には、徳川家康は「豊臣秀吉」の子「豊臣秀頼」との会見を行ないますが、徳川家康は征夷大将軍になったあとも、豊臣家を警戒していました。そこで二条城の会見での「徳川家のもとに豊臣家が挨拶に来た」という事実によって、徳川家が豊臣家よりも優勢であることを見せつけたのです。
このあと、徳川家と豊臣家の対立は激化。徳川家康は豊臣家の討伐を始めました。これが「大坂冬の陣・夏の陣」です。徳川家の勝利に終わったこの戦いは、二条城からの出陣だったことでも知られています。
1626年(寛永3年)、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」と3代将軍「徳川家光」の上洛中に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が行幸。この行幸に合わせて、2年前の1624年(寛永元年)より徳川家光は、二条城の拡張や天守・本丸御殿の造営などを行ないました。
徳川家光は1634年(寛永11年)に大軍を率いて上洛し入城します。その後は「江戸城」を中心とした幕府の基盤が安定したため、約230年の間、二条城に将軍が入城することはありませんでした。この間に二条城は、火事によって天守や本丸御殿などが焼失しています。

1863年(文久3年)になると、外国勢力の排斥を求める孝明天皇に応えるため、14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)が上洛・入城しました。これに合わせて、二の丸は全面的に修繕。徳川家茂の死後、将軍の座を引き継いだのは「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)です。徳川慶喜は江戸城ではなく、二条城で職務を行ないました。この頃、幕府が衰退の一途をたどる一方で、同盟を結んだ長州藩薩摩藩は討幕運動を開始します。そして1867年(慶応3年)10月、二の丸御殿の大広間にて徳川慶喜は、政権を幕府から朝廷へと返上する大政奉還の意を明らかにしました。これにより江戸幕府は終焉を迎えます。

1868年(明治元年)になると、二条城には政府の中枢機関・太政官代が設けられました。1871年(明治4年)には、二の丸御殿のなかに京都府庁を設置。1915年(大正4年)の大正天皇即位の儀式後には、歓待のための宴が二条城で開かれました。
昭和時代に入ると二条城は一般公開されるようになり、二の丸御殿が国宝に、22棟もの建造物が重要文化財となります。また1994年(平成6年)には、清水寺本願寺などとともに「古都京都の文化財」の名で、世界文化遺産にも登録されました。

二条城の特徴

二条城には天守は残っていないものの、本丸御殿と二の丸御殿という2つの御殿があります。特に国宝でもある二の丸御殿は、現存する唯一の城郭御殿。御殿群として残っているのは国内で唯一です。
ここでは本丸御殿と二の丸御殿をご紹介していきましょう。

本丸御殿

二条城・本丸御殿
二条城・本丸御殿

二条城の本丸御殿は、城の中心部に位置しており、内堀で囲われています。1626年(寛永3年)3代将軍・徳川家光が、後水尾天皇が行幸される際に建てられましたが、1788年(天明8年)の大火で焼失。現在の御殿は、江戸時代、京都御所内に桂宮家が築いた御殿の主要部分を、1894年(明治27年)に明治天皇の意によって移築された建物です。移築前には、幕末に14代将軍・徳川家茂の妻・和宮(かずのみや)が暮らしていたと言われており、移築後には皇太子の頃の大正天皇が滞在していたと伝わっています。

江戸時代当時の生活の様子を垣間見ることのできる貴重な本丸御殿は、玄関・御常御殿(おつねごてん)・御書院・台所と雁の間の4つの建物で構成。
正面入り口の玄関は格式が高く、曲線上の唐破風(からはふ)が付いた車寄(くるまよせ)があります。
御常御殿は政務のための建物であるとともに、日常生活を送る場所でもありました。狩野永岳(かのうえいがく)が描いた障壁図「松鶴図」が美しく、座敷飾や蚊帳吊り金具なども特徴的です。公の対面所の役割を持つ御書院も同様に、障壁画で飾られています。なかでも中書院三の間は、畳を取り外すと能舞台として使用することができました。
台所は吹き抜けとなっており、居間である雁の間には、雁を描いた障壁画が設置されています。

二の丸御殿

二条城・二の丸御殿
二条城・二の丸御殿

江戸時代の書院造の代表的な建物である二条城の二の丸御殿は、現存する唯一の御殿群として国宝に指定。歴史上においても大変貴重な遺構です。部屋の数は33室で、内部の広さは800畳余りにもなり、玄関にあたる車寄には、屋根の下に松や牡丹、伝説上の鳥である鸞鳥(らんちょう)などの彫刻が施されています。また二の丸御殿は廊下が「鶯張り」(うぐいすばり)で、歩くとキュッキュッと音がすることから、来客があったときや敵が忍び込んできたときに気付きやすくなっていました。

二条城の二の丸御殿は、入り口から順に、遠侍(とおざむらい)・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の6棟で構成されており、なかでも遠侍が最も広いです。
来客の控室である遠侍は、一の間から三の間まで、ふすまや壁には荒々しい虎の絵が描かれており、「虎の間」と呼ばれています。式台は「式台の間」「老中の間」の2つで構成された棟で、老中の間は老中たちの控室と執務室をかねていました。式台の間では訪れた大名が老中と挨拶し、献上品などの取り次ぎを行なっていたと言われています。

二条城・二の丸御殿
二条城・二の丸御殿

将軍と諸大名・公卿衆が公式に対面する場が、大広間にある一の間・二の間です。対面時、将軍は上段の間である一の間に座っていました。床の間や違い棚など、書院造りの特徴が盛り込まれた一の間は、障壁画・天井ともに豪華絢爛かつ荘厳な空間。二の丸御殿で最も格式の高いつくりとなっています。15代将軍・徳川慶喜はこの一の間で大政奉還の意を表明しました。大広間には他にも2つの部屋があり、大名の控室だった三の間には、厚さ約35㎝にもなる檜板に華麗な透かし彫りを施した欄間が設けられています。また四の間は将軍上洛の際に、武器庫として使われていました。
黒書院は「小広間」とも呼ばれる、少人数用の公的な対面所。大広間と同じく書院造りですが、より装飾的な空間です。白書院は将軍の居間と寝室だったと考えられており、他の豪奢な部屋とは異なる、落ち着いた雰囲気となっています。

二条城の見どころ

本丸御殿や二の丸御殿以外にも多くの魅力のある二条城。こちらでは二条城の見どころについてご紹介します。

東大手門

東大手門
東大手門

堀川通に面した、二条城の正門にあたる門。築城当時は2階建ての櫓門(やぐらもん)でした。1626年(寛永3年)、後水尾天皇行幸の際に、「天皇を上から見下ろしてはならない」として平屋に建て替えられ、1662年(寛文2年)頃の改修で、再び2階建ての櫓門へと戻ったと考えられています。
また東大手門を通って横に見える建物は「番所」です。二条城の受付や警備室の役割を担っていました。番所が残っている城は大変貴重です。

東南隅櫓

東南隅櫓
東南隅櫓

二条城には外堀の四隅や主要建造物の隅に、見張り台も兼ねた武器庫の櫓が建てられていました。しかし1788年(天明8年)に京都を襲った大火により、大半の櫓が焼失。東南隅櫓・西南隅櫓のみが残る形となりました。
東南隅櫓は1602~1603年(慶長7~8年)に築かれ、1625~1626年(寛永2~3年)に改修されたと言われています。

唐門

唐門
唐門

二の丸御殿の正門です。屋根は切妻造りとなっており、前後に唐破風が付けられています。破風の欄間に施されているのは、色鮮やかな彫刻。松竹梅や鶴、龍や虎、鳳凰などの縁起物が彫られています。
2011~2013年(平成23~25年)の改修工事で、飾り金具の菊紋の下から葵紋が発見されました。菊紋は天皇家、葵紋は徳川家を表す紋章。二条城が皇室の別邸となった明治時代中頃に、葵紋から菊紋へと改められたと考えられています。

天守閣跡

天守閣跡
天守閣跡

本丸の南西に位置する、天守の跡です。築城時は伏見城より移された天守が存在していましたが、1750年(寛延3年)の落雷で焼失。再び築かれることはありませんでした。
残った石垣の上は、本丸御殿や本丸庭園、京都市街地が一望できる展望スポットとなっています。

本丸庭園

本丸庭園
本丸庭園

築城当時の本丸庭園は、大火により焼失したと推測されています。1893~1894年(明治26年~27年)に枯山水の庭園が造られましたが、1895年(明治28年)に本丸に行幸した明治天皇の命によって改造され、芝庭風の築山式庭園が完成しました。
人工的に作られた山・築山(月見台)が配置されている庭で、芝生が敷き詰められ、曲線的な道が設けられています。明治時代の中頃は、洋風の庭園が多く作られていたこともあり、本丸庭園も洋風庭園の影響を受けました。

二の丸庭園

二の丸庭園
二の丸庭園

二条城の築城の際に造られたと推測される書院造りの庭園で、小堀遠州の代表作と言われています。池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配置。蓬莱島は不老不死の仙人が住むと言われており、鶴亀は長寿の象徴です。
後水尾天皇が行幸した当時は、二の丸御殿の黒書院・大広間、行幸御殿から庭園が見られるように設計されていました。しかし行幸にかかわる建造物は撤去されていきます。また徳川家光の上洛以降、約230年も将軍の上洛はなく、徳川慶喜の上洛時には、庭は荒廃していました。二条城が宮内省所有になってから大規模な改修がなされて、庭園景観が完成したと考えられています。1953年(昭和28年)には、国の特別名勝に指定されました。
大きさや色の異なる様々な石を木のように並べた設計で、力強さが感じられる庭園です。

清流園

清流園
清流園

二条城築城当初はこの地に天守の一部があったと推測されています。天守が撤去されてからは武士の住居となり、明治時代初期に緑地に整備されました。大正天皇即位の際に宴会場として使用され、宴会のための施設が撤去されてからは、造園家・小川治兵衛によって庭園となっています。第二次世界大戦後、テニスコートにされた時期もありましたが、1965年(昭和40年)に清流園が作庭されました。東半分が洋風、西半分が和風という独特な和洋折衷の庭園で、和風庭園には茶室もあります。

二条城障壁画 展示収蔵館

二条城の二の丸御殿は約3,600面もの障壁画で飾られており、なかでも寛永期の障壁画は、徳川家光が二条城を改修した際に、狩野派の若き棟梁・狩野探幽ら絵師たちによって描かれました。二の丸御殿の障壁画は、1972年(昭和47年)から模写が行なわれ、式台・大広間・黒書院・白書院の障壁画が模写にはめ変えられています。これは貴重な障壁画を恒久的に保存することが目的で行なわれました。こちらの展示収蔵館では、期間を分けて原画が展示されています。

※この記事は、2020年(令和2年)6月時点の情報に基づいて作成されています。
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