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現存している天守

1579年(天正7年)に織田信長安土城天守を築城してから、日本の天守建築は本格的になりました。しかし、徳川時代の一国一城令、及び武家諸法度でお城の築城は制限されます。明治期に入ると廃城令が公布され、また第二次世界大戦で空襲などの被害を受け、天守の多くが失われることになりました。廃城令発布後であっても60ヵ所程度の天守が存在しましたが、第二次世界大戦までには20ヵ所程度まで減少。時代の変遷によって天守をめぐる状況も大きく変化したのです。ここでは、現存する天守について詳しく見ていきます。

天守が減るきっかけとなった「一国一城令」と「武家諸法度」

江戸時代までに建築され、修復を繰り返して現在まで残っている天守のことを「現存天守」と呼びます。日本全国で見ても現在12ヵ所しか存在していません。安土城が建築されて以降、江戸時代には数百もの天守が存在していたと言われていますが、現在はなぜたった12ヵ所しか天守が残っていないのでしょうか。

それには、徳川時代の一国一城令、及び武家諸法度が深く関係しています。
天守の建築は織田家で広まりを見せ、豊臣家が政権を握った時代に全国へ普及、その後の「関ヶ原の戦い」後に大名たちが多くのお城を築きました。すべてのお城に天守が存在したわけではありませんが、それでも天守が存在するお城もあったはずです。そして江戸時代に入り、徳川幕府からの「一国一城令」及び「武家諸法度」によって、新たな築城が制限され、新規のお城が激減しました。

天守を守ろうとした人々

現在は天守をはじめ、お城の文化的価値は様々な形によって守られていますが、江戸時代頃のお城の価値はとても低く見られていました。明治維新によって廃藩置県がなされると、全国にあったお城や天守は存続させるべきか、それとも廃城するべきかの2択に迫られます。その結果、陸軍によって兵営地や訓練場所としての価値を認められなかったお城は、1873年(明治6年)の「廃城令」により、すべて廃却されてしまいました。

当時、お城は軍が必要としなければ維持費のかかる建造物であり、現在のように文化財として見られることはなかったのです。そのため、お城は状況に応じて建物の部分だけを壊したり、石垣だけを壊して櫓に再利用したりするなど、様々な形で活用されていきました。中でも天守は、その巨大さから再利用も難しければ取り壊すにも費用がかかるため、安い値段で払い下げられてしまったのです。

しかし、そんなお城や天守の認識を改めようとした人物が現れました。陸軍大佐である「中村重遠」は、日本のお城や天守が軍事目的ではなく建築的・美術的に価値があると訴えた一人。中村重遠は、全国のお城を視察する中で、「姫路城」と「名古屋城」にある文化的価値を訴えたのです。

姫路城は、軍用価値が認められた全国43城に含まれていましたが、文化的価値が認められたわけではなかったため、1878年(明治11年)ごろには取り壊しや売却の声もあったほどでした。そんな中、陸軍の建築・修繕を担当する部局第四局で局長代理であった中村重遠は、姫路城と名古屋城を文化財として残すように、太政官に上申してもらいたいと意見書を提出。その結果、陸軍参謀本部が上申を認め、お城や天守の保存工事を国の予算によってできることとなったのです。

廃城令とは

近世日本の代表的な建造物でもある天守(お城)の激減を招いた「廃城令」の正式名称は、「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)。太政官(だじょうかん:明治時代初期の行政職)から「陸軍省」と「大蔵省」(現在の財務省)に発せられた、城郭の扱いについての太政官達(だじょうかんたっし:太政官によって公布された明治初期の法令)の総称です。これにより、お城は「軍事施設」と「それ以外」に2分化されます。このうち、「それ以外」に分類されたお城については大蔵省の管轄となり、民間への払い下げ処分などが行なわれました。

天守が仮兵舎となった名古屋城

名古屋城に関しても、1872年(明治5年)に本丸に陸軍東京鎮台第三分営が置かれ、同年に二之丸、三之丸も陸軍省の所管になりました。それだけにとどまらず、翌年には東京鎮台第三分営から「名古屋城」という名称を「名古屋鎮台」に改称されてしまいます。現存していた天守は仮兵舎となり、本丸御殿は名古屋鎮台本部となりました。この頃になると、場内に新たな陸軍施設を建てるために、二之丸御殿をはじめ多くの建物が撤去されますが、天守は残されたままでした。

こうした状況を知った中村重遠らの進言を受け、名古屋城を保存すべきとの声が挙がったことで、1879年(明治12年)に陸軍省、内務省、大蔵省は名古屋城を姫路城と同様に「全国でも屈指の城」として永久保存する方針を決定。保存修理の費用や人員の負担が重くなったことを理由に、名古屋城は陸軍省から宮内省へ移管されます。しかし1891年(明治24年)に、濃尾地震が発生。地震による修復は陸軍省が費用を負担し、技術者を擁する宮内省が実務を行ないました。

やがて名古屋城が宮内省に移管されると、1893年(明治26年)に本丸・西之丸東部は「名古屋離宮」となります。この後、名古屋城はこの「名古屋離宮」という名で呼ばれ天皇や皇后を度々迎えました。そして1930年(昭和5年)になると、「名古屋離宮」は名古屋市へと下賜され、再び「名古屋城」と呼ばれるようになったのです。

現在の天守

現在の天守

一度は失われた天守ですが、昭和中期(30年代)以降はその復元、復興運動が盛んになってきます。築城の際に作られていた天守の雛形(柱や梁などの骨組みを再現したミニチュア)や、当時の設計図に基づいたり、残された絵画史料や写真史料を参考にしたりするなど、様々な方法によって再建されたのです。なかには石垣の移動・積み替えの必要があるため「歴史的建造物の破壊である」とする意見もありました。再建されたすべての天守が当時のままに再現されたと言う訳ではありませんが、いずれにしても往時を彷彿とさせる建造物となっており、日本の多くの土地で観光地や名所として人気を博しています。

日本に現存している天守

第二次世界大戦以前は日本に20の天守があり、それが「現存天守」と呼ばれていました。しかし、戦時下におけるアメリカ軍の攻撃により水戸城大垣城名古屋城和歌山城岡山城広島城福山城の天守が失われ、その後、火災によって松前城の天守が消失。現在、天守が現存しているお城は12城となりました。それらすべての天守が当時のままの状態で保存されている訳ではなく、繰り返し修復がなされることで残っていたり、一部が消失されたままになっていたりするなど現存している状況は様々。以下が、その12の現存天守です。

いずれも国の重要文化財に指定されていますが、特に松本城・犬山城・彦根城・姫路城の天守は、国宝に指定されており「四宝四城」と呼ばれています。1993年(平成5年)には、姫路城が「世界遺産」に登録されました。

それ以外の天守

現存天守以外にも、当時の天守の状況を再現した復元天守、一部に改変を加えたり推定の入ったりしている復興天守、もとはなかった天守を新たに設けた模擬天守があります。