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城情報

城主大名とは

「大名」の言葉がもつ意味は、時代とともに変容を遂げていきました。
平安時代から鎌倉時代にかけては、大きな名田(みょうでん)を所有していた者を指しているとの説があります。室町時代には守護大名のことを指していました。
戦国時代に入ると、実力でのし上がる下剋上によって台頭した戦国大名が現れます。徳川家康が全国の大名を統治した江戸時代になると、1万石以上の領地を持つ大名を指すようになりました。
江戸時代に大名に認められていたのは、「藩」と呼ばれる領地の支配です。しかし、その一方で「城を新たに建築、改修してはならない」「幕府の許可なく結婚してはならない」といった「武家諸法度」と呼ばれる法律を守らなければなりませんでした。
ここでは「江戸時代の大名」について説明していきます。

城主になれる大名・なれない大名

大名たちにとって城を所有することは、権力の象徴と言っても過言ではありません。しかし江戸時代、すべての大名が自由に城を持つことはできませんでした。
江戸時代の大名は、石高によって「国主」(国持大名)「準国主」「城主」「城主格」「無城」の5階級に分かれています。
このなかで、城を持つことができる「国主」(国持大名)「準国主」「城主」が「城主大名」です。300余りの藩がありましたが、城を持てる大名は半分以下でした。

城を持てる「国主」(国持大名)「準国主」「城主」

加賀藩 金沢城
加賀藩 金沢城

一国を持つ大名を「国主」、国は持っていなくてもそれに準じる格式を与えられた大名は「準国主」と呼ばれていました。
この場合の国とは奈良時代から明治時代の廃藩置県に至るまで使用されていた「令制国」、いわゆる地方行政区分のことです。
例えば信濃国(現在の長野県)や出雲国(現在の島根県東部)、伊勢国(現在の三重県北中部)などが挙げられます。
国主大名のなかでもとりわけ有名なのが、当時最大の石高を有しており、「加賀百万石」とも言われた加賀藩の前田家。加賀藩は加賀国(現在の石川県南部)、能登国(現在の石川県北部)、越中国(現在の富山県)の3ヵ国を所領しています。

前田家は、もともとは幕府からの信頼が薄い外様大名でしたが、強い婚姻関係を結んだことで家格は別格となりました。前田家の居城は、「前田利家」が本格的に築城した「金沢城」です。
10万石以上を所領した「準国主」は、「宇和島城」の城主だった伊達家、柳川城主だった立花家、「二本松城」の城主だった丹羽家の3大名のみでした。

「国主大名」と「準国主」大名以外で、城を所有している大名は「城主」と呼ばれました。近江国(現在の滋賀県)彦根藩彦根城」の城主・井伊家や、播磨国(現在の兵庫県南西部)姫路藩姫路城」の城主・酒井家などがあります。
「城主」は約3万石以上の石高を持っていました。城の維持には莫大な資金が必要となってくるため、石高を多く持つ藩でないと城が持てなかったのです。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

城主大名たちは城を持っていましたが、天守には住んでいませんでした。その代わりに本丸や二の丸に「御殿」を建てて、そこで居住していたと考えられています。
「御殿」は政治を行なう「表御殿」と、大名とその家族などが住む「裏御殿」に分かれていました。そして戦国時代は軍事の最終拠点としての働きをもっていた天守も、江戸時代に入るとほとんど使われなくなり、藩の象徴となっていきます。

また江戸幕府は、大名たちの軍事力を抑えて統制するため、1615年(元和元年)に一国一城令を公布。ひとつの国・藩に城をひとつのみとし、他を廃城としました。続いて公布された武家諸法度には「幕府の許可なく新しい城を造ってはならない、修築してはならない」の内容が盛り込まれます。幕府に対して、諸国の大名が城を拠点として謀反を起こさないためです。これらの法令によって天守の新築・修築が難しくなり、「三重櫓」を天守の代わりとする大名もいました。

一国一城令により、全国にあった城の約95%が喪失しています。また1873年(明治6年)には廃城令が公布され、城の持ち主は城主大名から陸軍省へと変わりました。これにより軍用基地として不要な城は「廃城」となってしまいます。
「廃城」とならなかった城も保存されないことが多く、また戦争による被害もあり、現在、天守が残っている城は12しかありません。

城を持てない「城主格」「無城」

「城主格」は、城を所有できない大名でありながらも、2万5千石以上の俸禄があり、城主大名と同格の扱いを受けていました。
「無城」は城を所有できない小さな藩の大名で、陣屋大名とも呼ばれています。陣屋とは、城を所有できない大名が住み、政治を行なう場所として、城とは明確に区別されていたのです。陣屋は、天守はもちろん櫓などを建てることも禁止されており、防御機能がありません。城主格へは無城大名から昇格する場合もありましたが、原則的に城の新築と陣屋を城へと改築することは禁止されており、陣屋に城門を造ることのみが許されていました。

無城大名の居館「陣屋」

「陣屋」は、石垣が低く堀が浅い他、曲輪はひとつのみで、櫓や鉄砲や矢を放つための狭間(さま)もなく、城と比べて防御機能が少ない造りとなっていました。
日本三大陣屋は、敦賀陣屋(福井県敦賀市)、徳山陣屋(山口県周南市)、飯野陣屋(千葉県富津市)ですが、遺構はほとんど残っていません。

名張陣屋の藤堂家邸跡
名張陣屋の藤堂家邸跡

しかし、「藤堂高虎」の養子・藤堂高吉(とうどうたかよし)が構えた「名張陣屋」(三重県名張市)には、太鼓門や屋敷の一部が現存。その他、復元された「三日月陣屋」(兵庫県佐用郡佐用町)、大砲台や武器庫跡などが整備されている「戸切地陣屋」(北海道北斗市)など、当時の様子がうかがえるような陣屋跡も全国には存在しています。

江戸時代における大名の序列

関ヶ原の戦い」を終えて徳川将軍家が成立すると、諸国の大名には序列が決められました。序列を定めるのは、強固な政治基盤を築くための方策のひとつでもあったのです。

大名は大きく「親藩」「譜代大名」「外様大名」の3つに分けられました。城主大名や無城大名といった大名の格とは、また別の区分けです。
「親藩」は徳川家の親族大名で、「尾張徳川家」「紀州徳川家」「水戸徳川家」は、「御三家」と呼ばれています。将軍に跡継ぎがいない場合は、この御三家から将軍を選ぶことになっていました。

毛利家の居城・萩城跡
毛利家の居城・萩城跡

そして、江戸幕府の成立へとつながる関ヶ原の戦い以前から徳川家に従っていた大名を「譜代大名」と呼びます。
また、関ヶ原の戦い以降に徳川家に従うこととなった大名を「外様大名」と呼び、長州藩の毛利家や薩摩藩の島津家など、石高の多い大名です。

譜代大名は政治にかかわる大切なポジションを任せられるなど、徳川家からことの他取り立てられたのに対し、外様大名は関ヶ原において徳川と対峙していた人物が存在したため、厳しい処遇を受けていました。信頼度の高い親藩・譜代大名には、交通の要所や幕府と近い土地、以前敵対していた外様大名には幕府から遠い土地が与えられています。
特に江戸周辺や経済的に重要な土地は、幕府が直接治めていました。1635年(寛永12年)には、将軍のいる江戸に一定期間滞在する参勤交代が始まります。この参勤交代は、将軍と大名の主従関係を明確にするための制度です。特に江戸から離れている外様大名にとっては、大きな負担となっていました。

また、配置も工夫されています。外様大名の領土と、別の外様大名が持つ領土の間は、譜代大名らの領土をはさみ、外様大名同士が連携できないようにしていました。

このように江戸幕府は、序列を設けることによって大名たちを統制していたのです。