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重文7城「宇和島城」の特徴

宇和島城の歴史

愛媛県宇和島市は、江戸時代には「伊達十万石の城下町」と呼ばれ、四国西部の中心として文化を発展させてきました。そして、そのシンボルとして親しまれているのが宇和島城です。
伊達家が改修した天守は、全国に残る希少な現存十二天守のひとつ。その白亜の美しさから「鶴島城」とも呼ばれています。
宇和島城の縄張(設計)は、築城の名手・藤堂高虎により、四角形に見えるよう仕掛けられた城郭で、実際は五角形となっているのが特徴です。
また、自然を活かした城としても知られており、苔むした石段や、ユキノシタが群生している石垣といった、緑と石のコラボレーションが楽しめます。
ここでは宇和島城について、様々な特徴や見どころなどをまとめました。

宇和島城の歴史

宇和島城の築城年代は定かではありませんが、941年(天慶4年)、警固使(けいごし)の橘遠保(たちばなのとおやす)が、当時朝廷に反乱を起こしていた藤原純友(ふじわらすみとも)を捕らえた功績により、宇和島に砦を築いたのが始まりではないかと伝えられています。
その後、家藤監物(いえふじけんもつ)、西園寺宣久(さいおんじのぶひさ)、持田右京(もちだうきょう)など城主は次々と変わっていきますが、この頃はまだ本格的な城郭ではありませんでした。この頃の宇和島城は、「板島丸串城」(いたじままるくしじょう)と呼ばれています。

その後、藤堂高虎が中国毛利攻めや賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで軍功を上げ、1595年(文禄4年)、宇和郡の領主となりました。藤堂高虎は、翌年の1596年(慶長元年)に板島丸串城の築城工事を始め、1601年(慶長6年)に築城は完了。このときに城の名前が「宇和島城」に改められたのです。
藤堂高虎は、このときすでに大和郡山城紀州和歌山城を築城していましたが、大名になってから自分の居城として城を造るのは、宇和島城が初めてでした。
このあと、今治城伊賀上野城、そして伏見城丹波亀山城大坂城江戸城など数多くの築城や修築に携わり、名築城家としての名を轟かせていきます。
関ヶ原の戦い」や築城の実績により、「徳川家康」から信頼を得ていた藤堂高虎は、1608年(慶長13年)、大阪を攻める拠点である伊賀国(現在の三重県伊賀地方)・伊勢国(現在の三重県北中部)に移ることとなりました。

そして1615年(元和元年)になると、仙台藩主「伊達政宗」の子である伊達秀宗(だてひでむね)が宇和島藩初代藩主となります。これは1614年(慶長19年)の「大阪冬の陣」での功績により、宇和郡10万石が付与されたためです。
以降、明治維新まで伊達家が城主を務め、2代目藩主・伊達宗利(だてむねとし)の時代に、天守が現在の姿に改修されています。
明治時代に民間への払い下げが決定しますが、「宇和島城を残してほしい」という宇和島の人々の声から、8代藩主だった伊達宗城(だてむねなり)が、「伊達家が保護するため」として城山ごと買い戻しました。伊達宗城は、城主時代に殖産興業や富国強兵を推進するなど、藩政改革に努め、「幕末の四賢侯」と称されます。

その後、大正時代までは数多く遺構がありましたが、取り壊しや戦火によって、天守と「上り立ち門」、石垣のみが残される形となりました。

宇和島城の特徴

宇和島城の特徴
宇和島城から望む海

宇和島城は梯郭式(ていかくしき)平山城です。梯郭式とは、本丸を片隅に造り、2~3方向から本丸を二の丸が囲み、さらに二の丸を三の丸が取り囲む縄張りの一種を指します。

宇和島城の特徴は、空から見ると城の外郭がいびつな五角形をしていること。これは藤堂高虎によって設計された、五角形の城郭を四角形に見せかける「空角の経始」(あきかくのなわ)と呼ばれる縄張りです。四角形だと思っていた敵にとって、一辺が死角となるために空きが生じ、攻撃が手薄になります。また味方にとっては、攻撃を避けられるだけでなく、敵を攻撃する出撃口にも。こっそりと物資を搬入したり、城から逃げ出したりもできます。
幕府の隠密が四国の城を調べた際の報告書にも、四角形であったと記されました。隠密をだますほどまでに巧みな設計であったことが分かります。

現在は埋め立てられて海から離れてしまっていますが、築城された当時は城の約半分が海に面している海城でした。また船を置いていた場所へと通じる抜け道が存在していた説もあり、船の場所も抜け道も、陸や海から隠れていたと考えられています。宇和島城は立地と縄張りを巧みに利用した、難攻不落の城だったのです。

宇和島城の見どころ

JR「宇和島」駅から徒歩約10分の栄えた場所にありながら、うっそうとした緑の中に佇む深遠な雰囲気が宇和島城の魅力。天守までの道のりは、ちょっとした登山やトレッキングのようです。
全国でも数少ない現存天守のひとつとして、宇和島城には史跡や見どころがたくさん。宇和島市内の観光情報と合わせて、おすすめのスポットをご紹介します。

豊かな自然

豊かな自然
宇和島城内の自然

宇和島城のある城山は、300年以上の期間において、人為的な伐採や火災から免れてきました。そのため天守までの道筋において、自然が育んだ珍しい植物や巨木を鑑賞することが可能。解説が書かれた案内板も点在しているので、自然に親しみながらの城郭散策ができます。
約400種類の植物群に覆われた城山は、森林浴を心ゆくまで楽しむことのできる街中の自然スポットです。

藩老桑折氏武家長屋門(はんろうこおりしぶけながやもん)

藩老桑折氏武家長屋門
藩老桑折氏武家長屋門

JR「宇和島」駅側にあり、駐車場を備えている入口が「藩老桑折氏武家長屋門」です。宇和島藩の桑折氏の長屋門として使用されていました。門の右側は馬屋で、左側には門番や使用人が暮らしていたと考えられています。
こちらの長屋門は太平洋戦争による被害を免れていましたが、1952年(昭和27年)に道路拡張整備が実施されたことによって、今ある場所へと移築されました。

現在の間口は15mほど。往時は35mにもなる大きさがありましたが、移築の際に左側半分ほどを切り取る必要があったため、当時とは異なる姿となっています。江戸中期の建造物であり、宇和島市の有形文化財にも指定されました。こちらの登城口には急な階段状の道筋と、やや緩やかな登りの2通りのコースが用意されています。

上り立ち門

上り立ち門
上り立ち門

宇和島城で完存する建造物は天守と、この「上り立ち門」の2棟のみです。江戸時代には裏門として使用されていました。登城の際にこちら側から入る場合は、傾斜が急な石の階段を上ることになるので注意が必要です。
武家造りの建造物の門で、現存する中では国内最大クラスの薬医門であるとともに、年代についても藤堂高虎時代の建築物である可能性が高く、現存では最古の門なのではという評価もされています。
門の前に建っているのは、児島惟謙(こじまいけん・こじまこれたか)の銅像。宇和島藩出身で、生家跡には石碑も建てられています。
1891年(明治24年)に起きた、日本人警察官がロシア皇太子に斬りかかる「大津事件」の際に、司法権の独立を守った人物としても有名です。また、ロシアからの報復を恐れた日本政府からの死刑を求める圧力に屈しませんでした。

城山郷土館(旧山里倉庫)

城山郷土館
城山郷土館

かつては三之丸に建てられ、武器庫として使用されていた「旧山里倉庫」。これは、四賢侯のうちのひとりとして知られた伊達宗城が、8代藩主を務めていた1845年(弘化2年)に建てられています。
1966年(昭和41年)、城山内「藤兵衛丸跡」に移築され、「城山郷土館」として生まれ変わり、民俗資料などを展示していました。
2015年(平成25年)には、宇和島伊達入部400年を記念してリニューアル。宇和島にゆかりのある偉人について展示されています。
藤兵衛丸跡には、「穂積陳重・八束兄弟生家長屋門」も移築されました。「穂積陳重」(ほづみのぶしげ)「穂積八束」(ほづみやつか)兄弟は、明治時代に活躍した法学者です。

藤堂高虎の思想が顕現する井戸丸

井戸丸矢倉
井戸丸矢倉

宇和島城の縄張には、藤堂高虎のこだわりが随所に現れています。五角形型の城郭構造や、藤堂高虎の代名詞である「高石垣」はもちろんですが、宇和島城で特に注目したいのは井戸。籠城戦の可能性もある城にとって、井戸は生命線とも言えるのです。
宇和島城には、井戸が掘られた場所が3ヵ所あります。そのうち本丸北側の井戸は、「井戸丸(井戸屋形・井戸郭)」と呼ばれ、井戸がひとつの郭として扱われるほど重要な位置付けとなっていました。井戸丸に繋がる階段は複雑な形状を為していて、築城名人であった藤堂高虎の防御思想をうかがい知ることができます。

宇和島城天守

宇和島城の屋根
宇和島城の屋根

宇和島城の天守の構造は、三重三層です。藤堂高虎が築いた城は今とは違う姿でしたが、伊達宗利による大改修によって、現在のすっきりとした層塔型に変わりました。
伊達宗利によって天守が改修されたのは、太平の世となってから。このため、鉄砲用の隙間である「狭間」(さま)や、敵に石を落とすための「石落とし」などの軍事に備えた設備がありません。天守特有の急な階段はあるものの、その手すりには他の現存天守にはない芸術的な細工が随所に施されています。

外観の美しさも、宇和島城のポイントのひとつです。天守の入り口には門があり、装飾性の高い唐破風(からはふ)の屋根が見られる他、3種類の伊達家の家紋「堅三引両紋」「九曜紋」「竹に雀紋」も刻まれています。
天守の屋根は、一層には三角形の千鳥破風(ちどりはふ)がふたつ、二層には大きな千鳥破風がひとつ。最高層には唐破風が設けられていることに加え、細かな装飾がなされた飾り板・懸魚(げぎょ)もあり、漆喰塗りの白い城壁と相まって美しいです。優美な姿から、5代藩主・伊達村侯(だてむらとき)が「鶴島城」と名付けました。

屋根に見られるのは、飾り瓦である「桃瓦」。長寿を表す亀の上に、中国で「魔除けの果実」と伝わる桃が載った珍しい瓦です。
他にも「現存十二天守」のなかで唯一残る障子戸や、伊達政宗・伊達秀宗の甲冑レプリカを見ることができます。また天守は住むための場所ではないため、板間であることが多いのですが、宇和島城は独特の造りで、1階から3階まで畳敷きでした。

登城の際、御朱印(御城印)を集めている方には、「登城記念印状」がおすすめ。宇和島城の御朱印は、「竹に雀紋」があしらわれている伊達家にちなんだ印です。上部に独立してスタンプが押されるため、文字で隠れることがなく、デザイン性の高い御朱印を頂くことができます。

和霊神社

和霊神社と大鳥居
和霊神社と大鳥居

和霊神社」も、宇和島城観光には欠かすことのできないおすすめスポット。和霊神社には、御影石造りの大鳥居や、福の神のお面・於多福面(おたふくめん)、天狗のお面・鼻高面があり、いずれも日本一の大きさを誇っています。

祭神は山家清兵衛(やんべせいべい)です。
宇和島藩に初代藩主・伊達秀宗が入った頃、藩はそれまでの城主の度重なる変更で疲弊していました。それを立て直すために伊達政宗に多額の借金をしており、財政難となります。この立て直しに尽力したのが、山家清兵衛です。伊達政宗からの信頼も厚く、領民からも慕われていた山家清兵衛ですが、1620年(元和6年)に伊達秀宗に子ども達とともに惨殺されてしまいました。
惨殺の理由は、藩の財政難と言われ、山家清兵衛が10万石のうち3万石を返済する策を献じたことや、領民の税を免じる代わりに家臣たちの録を下げたこと、大坂城工事の課役への対処方法でもめたことなどの説があります。伊達秀宗が武士たちに命令して行なったと言われており、父・伊達政宗にも幕府にも報告しなかったため、のちに和解はするものの、伊達政宗による勘当を受けました。
この「宇和島騒動」(和霊騒動)と言われる事件のあと、かかわった人物たちが次々と変死します。これを山家清兵衛の怨霊の仕業だと考えた人々は、霊を祀り、「和霊神社」が生まれました。
現在でも、中国・四国地方に伝わる和霊信仰の総本山として、「和霊様」の名で親しまれており、7月には「和霊大祭」が行なわれています。

伊達博物館

伊達博物館
伊達博物館

上り立ち門を出て歩いていくと、宇和島城からほど近い場所に立地しているのが「伊達博物館」です。1972年(昭和47年)に宇和島市50周年の記念事業として、伊達屋敷跡の敷地に建てられました。
伊達家由来の絢爛豪華な大名道具や歴史的に貴重な古文書など、文化遺産が約4万点収蔵されています。なかでも国の重要文化財に指定されている「豊臣秀吉画像」は、現存する数少ない「豊臣秀吉」の肖像画のひとつ。毎年5月の連休前後に2週間の期間限定で観覧できる作品です。 宇和島観光の際は、ぜひ訪れておきたい宇和島市内の文化施設となっています。

  • 宇和島城の施設詳細はこちら

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  • 宇和島城公式サイト

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