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重文7城「備中松山城」の特徴

備中松山城

岡山県南西部の高梁市、臥牛山(がぎゅうざん)に建つ備中松山城は、鎌倉時代から戦国時代にかけて「戦のための城」として使われていました。登城坂の周囲にそびえる岩壁から、「難攻不落の城」であったことがうかがえます。
秋から冬にかけて雲海が発生するために、天守が雲の上に浮かんでいるかのような姿が見られることから、「天空の山城」とも呼ばれる備中松山城。そんな備中松山城は、江戸時代より前の天守が残る「現存十二天守」のひとつです。天守は標高430mの場所に建てられており、これは「現存十二天守」のなかで最も高い場所となっています。
また現存する土塀として貴重なのが、「三の平櫓東土塀」。一部が国の重要文化財です。
こちらでは、備中松山城の歴史や特徴、見どころについてご紹介していきます。

備中松山城の歴史

備中松山城の前身である城は、すでに鎌倉時代から建てられていました。地頭、秋庭重信(あきばしげのぶ)が臥牛山に砦を築いたのが始まりとされています。
臥牛山は大松山、天神の丸、小松山、前山の4つの峰から形成されていますが、秋庭重信が建てた砦は大松山に建てられました。そして戦国時代になると徐々に縄張りを拡張。臥牛山全体へと曲輪が広がっていきます。
備中松山城が大改修され、そのすべてが完成したのは、天和(1681~1684年)に入ってからのことでした。1617年(元和3年)に池田長幸(いけだながゆき)が松山藩を建てると、その後、水谷家が備中松山城の城主となります。
水谷勝宗(みずのやかつむね)が城主の頃、幕府の許可を得て備中松山城の大改修を開始。1681年(天和元年)から3年の歳月をかけて、近世城郭へと生まれ変わりました。近世に山城が造られることは珍しく、現存十二天守のなかで山城なのは備中松山城のみです。

水谷家のあとは、1695年(元禄8年)に安藤重弘(あんどうしげひろ)、1711年(正徳元年)に石川総慶(いしかわふさよし)が入城。1744年(延享元年)に板倉勝澄(いたくらかつずみ)が入城すると、明治に至るまで板倉家を城主としています。
明治の廃城令により一部が取り壊されますが、1950年(昭和25年)に天守、二重の櫓、土塀が重要指定文化財に指定されました。

備中松山城の特徴

備中松山城は、近世城郭としては珍しい連郭式山城です。岐阜県の岩村城、奈良県の高取城と並び、日本三大山城とされています。
近世の城は政治的機能を備えているため、敷地を広くとれない山城は避けられていました。しかし山城である備中松山城では、山麓に御根小屋(おねごや)とよばれる藩主の館を設け、そこで政務を執っていたという記録が残っています。
備中松山城は山城らしく、登城しにくいよう山道が険しいことが特徴。天然の要塞である山城が体感できる場所として知られています。
天守は古文書のなかで、「三重櫓」とも呼ばれていましたが、実際は二重二層。高さは約11mと、「現存十二天守」のなかでは最小です。
重要文化財にも指定されている土塀は漆喰仕上げで、備中松山城のもっとも代表的な特徴を示しています。
登山道の途中で見られる「腰掛石」も見逃せません。「腰掛石」は、かつて水谷家の領地召し上げを説得した「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が、臥牛山の山麓で腰かけたと伝わっている石のことを指します。

備中松山城に関連する戦い

備中松山城
備中松山城

備中松山城のある地域は、山陰と山陽を結んでいるだけでなく、東西の交通の要衝でもありました。そのため数々の武将がこの地域を取り合っており、備中松山城城主は次々と交代していたのです。
ここでは戦国時代に行なわれた、備中松山城にかかわる戦いについてご紹介します。

明善寺合戦

南北朝時代から戦国時代にかけて、宇喜多家、尼子家、毛利家、三村家らは、備中をめぐって争っていました。そこで三村家親(みむらいえちか)は毛利元就と結託し、1561年(永禄4年)に備中松山城を手に入れます。
城を手に入れた三村家の勢力は強くなっていきましたが、1566年(永禄9年)に三村家親は、宇喜多直家の刺客により狙撃されて死亡。父を殺された三村元親が、翌年の1567年(永禄10年)に弔い合戦を開始したのが「明善寺合戦」です。
三村元親は、宇喜多直家が城主である明善寺城を攻略しました。しかし宇喜多直家方により包囲され、大敗を喫します。この大敗により、備中松山城は宇喜多直家方の庄高資(しょうたかすけ)に奪われてしまいました。このあと三村元親は、毛利元清の力を借りて、備中松山城を奪還。勢力をなんとか取り戻しました。

備中兵乱

備中松山城の石垣
備中松山城の石垣

明善寺合戦の頃、織田信長によって京から退けられていた室町幕府第15代将軍・足利義昭を、毛利輝元は保護します。
そして幕府側の策略により、毛利家と宇喜多家は同盟を結ぶこととなりました。これにより、宇喜多家に遺恨のある三村元親は、毛利家との結託を破棄。「毛利家と敵対すれば備中と備前を与える」と言ってきた、織田信長と通じることにします。
この離反により、三村元親と毛利・宇喜多連合軍との戦いの火蓋は切られました。しかし小早川隆景率いる毛利軍に攻められ、三村軍から離反者が出てしまいます。要塞化を進めていた備中松山城でしたが、激戦の末、三村元親は妻子や家臣を連れて脱出し、松連寺にて自害しました。またこのあと、毛利軍が三村家姻戚の常山城を攻撃した際、三村元親の妹・鶴姫をはじめとする女軍が抵抗した、「常山女軍の戦い」は有名です。
備中松山城は毛利氏の手に渡ったあと、毛利輝元が織田信長に対抗するために大改修しました。織田信長が討たれた「本能寺の変」以降も、関ヶ原の戦いまでの間、備中松山城は毛利家の所有となっています。これは毛利家の強い希望でした。

備中松山城の国指定文化財と国指定史跡

3つの国指定重要文化財と、8つの国指定史跡を有する備中松山城。ここではその重要文化財・史跡について、詳しくご紹介していきます。

天守(重要文化財)

備中松山城の天守は、現存する山城で唯一残っており、国の重要文化財にも選ばれています。
1階には囲炉裏や城主だけが入室できる装束の間、2階には御社壇があり宝剣が祀られていました。
天守の高さは現存天守の中で最も低いですが、石垣の上にあることや、唐破風があることから大きく感じられます。

二重櫓(重要文化財)

二重櫓
二重櫓

備中松山城にある14の櫓の中で、唯一の2階建ての櫓。
大棟には鯱(しゃちほこ)、破風には梅鉢懸魚があり、連子窓は漆喰塗です。1959年(昭和34年)に修理されています。懸魚とは、屋根の両端にある破風板に取り付けられた飾り板のこと。梅鉢懸魚はそのなかでも、梅の形を図形化した懸魚を指します。

三の平櫓東土塀(重要文化財)

三の平櫓東土塀
三の平櫓東土塀

土の塊に漆喰を塗って仕上げられている土塀です。長年の風雪に耐えて、今に姿を残しています。重要文化財に土塀が指定されるのは貴重なこと。現存の土塀と復元された土塀を両方見られるため、歴史を体感することができます。
復元後の土塀は、敵を狙い撃ちにするための「狭間」の配置も、現存している土塀を参考に造られました。

切通及び番所跡(史跡)

北部からの敵の侵入に備えて、臥牛山と臥牛山の東にある佐与谷山の境界に設置されました。設置年代は幕末あたりだと考えられています。
切通は尾根を断ち切った堀切で、番所はそれを乗り越えて出入りする人がいないかを監視するための場所です。曲線の石垣が特徴的で、備中松山城には他にもいくつか番所が見られます。

大松山城跡(史跡)

臥牛山で秋葉重信によって最初に城が建てられた跡であり、備中松山城はじまりの地です。
鎌倉時代から戦国時代にかけて使われており、中世の城郭では大規模でした。
7段にわたる曲輪が見られ、尾根を断ち切ることにより敵の侵入を防ごうとする仕掛けである堀切も残っています。

大池(史跡)

大池
大池

大松山城跡と天神の丸跡の間にある、珍しい石垣造りの池です。
「血の池」「首洗いの池」とも呼ばれる池で、戦で使用された日本刀や、人の首を洗ったと伝えられています。
城郭における貯水池では、2018年(平成30年)に国内最大と分かりました。貴重な水源だったと考えられています。

天神の丸跡(史跡)

備中兵乱で最初に落城した城郭跡。位置しているのは臥牛山の標高480m地点と、備中松山城内でもっとも高いところです。
「天神社」という神社があり、江戸時代を通じて、城主によって信仰されていたのではないかと考えられています。
「天神社」は明治時代初期までは天神の丸跡にありましたが、それからは城下町にある龍徳院に祀られることとなりました。

相畑城戸跡(史跡)

小松山城跡と天神の丸跡の、ほぼ中央に位置しています。備中兵乱では戦場となりました。
井戸や石積みなどが残っていることに加え、備中松山城で唯一、土塁を確認できる場所です。また昭和時代の中頃まで人が住んでいたとの説もあり、それに伴う石垣も見ることができます。

小松山城跡(史跡)

天守などがある備中松山城の中核です。石垣が高いことに加え、大手門は敵が侵入しにくい構造となっています。
石垣は天守や二重櫓と同様、自然を活かした作りになっていることが特徴的。何度も改修が重ねられているため、野面積みをはじめとする、色々な種類の石の積み方を見ることができます。

中太鼓櫓跡(史跡)

中太鼓櫓跡
中太鼓櫓跡

高い石垣が特徴的な櫓。ふいご峠にある駐車場と天守の中間に位置しており、城下町が一望できます。ふもとにある城主の屋敷と山の上にある天守の間を太鼓の音で通信する際に、拠点とされていました。
この南には、同じく史跡の「下太鼓の丸跡」があり、こちらは戦国時代、物見の最前線だったと考えられています。

  • 備中松山城の施設詳細はこちら

    備中松山城へ訪れる際には、役立つ口コミや画像が多数掲載されている
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  • 備中松山城公式サイト

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