天空の城、武士道の精髄。
まさにそこは天空の城と呼ぶにふさわしい城である。
二本松城の本丸へは小高い丘を登って行かなければならない。土の上を歩き、木々の中を抜け、階段を一歩ずつ上がっていく。階段はまさに天への道だ。
石垣の城郭が見えてくる。石垣は非常にきれいに並べられていて、その美観も天空の城に相応しい。思わずこんな小高い上にまでこれだけの石垣を運んだのは大変だっただろうと思う。まさに圧巻だ。
石の階段を上るとそこは本丸跡。今は当時を思い起こさせる建造物は何もなく、柵が設けられてベンチがあって公園のよう。ただそこから眺める絶景は当時のままだろう。山々を見下ろし街を見下ろせる。典型的な平山城の風景だが、空が近く雲に手が届きそうでまさにそこは天空の城だ。もしも本丸が残っていればさらにそこから眺める景色は絶景だろうと思うと、本丸がないことを残念に思う。
二本松城は新政府軍との二本松の戦いによって焼失する。二本松城に火を放ったのは城代丹羽和左衛門の養子茂正だった。それを知った和左衛門は茂正を乱心と一喝したという。しかし戦は敗れ、和左衛門も最後は陣羽織を着たまま割腹し、腸を掴みだしたというからすごい。さぞや無念だったのだろう。墓所は二本松城のふもとにある大隣寺にある。
二本松城といえばその名の通り二本松少年隊が有名である。会津藩の白虎隊もそうだが、この地でも少年たちが戦に巻き込まれていく。最年少は十二歳。西国の雄藩である薩摩、長州、土佐、肥後を中心とする新政府軍と徳川幕府側との戦、戊辰戦争が勃発。新政府軍は鳥羽伏見で幕府軍を撃破すると幕府のお膝元の江戸まで軍を進めた。しかしここで江戸城が無血開城となる。敵の大将を目の前にしながらそのやりばを失った新政府軍はその代わり身を探す。それが徳川家の右腕とも言うべき会津藩だった。そして二本松藩も奥羽越列藩同盟の一藩として戦に巻き込まれていった。
主力部隊は白河の戦いで留守だったため、老人、少年兵ばかりだったという。それでも彼らは勇敢に戦った。新政府軍の参謀、板垣退助の言葉を記そう。
「一般こぞって身命を擲ち、斃れてのち已むまで戦い抜き、武士道の精髄を尽くしたのは二本松をもって最上とす」
だった戦をやめろといいたい。