毛利氏最後の城
現在、山口県庁、山口警察本部、山口県政資料館がある辺りが山口城跡になります。
元々、戦国時代に中国地方を治めていた毛利氏が関が原の合戦の後、周防と長門の2カ国(長州藩)に減らされ居城は萩城としていましたが幕末になり山陽道に近く交通の利便性の高いこの地に築いたのが山口城です。
天守の無いお城なので山口屋形とも言われているそうです。
山口城跡の周りをみると北側から西側にかけて山がぐるりと囲む形になっていて山口城跡のすぐ西側にあるの鴻の峰には天守を持たない山口城の詰め城となる高嶺城がありました。
山口城跡の南側や東側は江戸時代の絵図や現在も残る堀の折れをみると死角の少ない稜堡式のような形をしています。
現在も残っている水堀は石垣造りになっていて堀の外側は通常の石垣のみですがお城の内側にある部分は石垣の上に土塁も築かれている腰巻石垣といわれる造りになっています。
水堀に沿って歩いていると山口城跡だということが1番わかる門がありそれが山口市指定の文化財にもなっている旧山口藩庁門です。
明治になり廃藩置県が行われて後は県庁の正門となり大正時代に新しく県庁舎が出来たあとは県庁の西門となりました。
ちなみに藩庁門は現在も県庁に行くための門として利用が可能です。
藩庁門は薬医門と呼ばれる門で門の隣に小さい門が付いています。
また薬医門はお城の外側からは水堀を渡り門に向かいますがの門の正面の左右の塀が手前に伸びていて門の前で囲まれる形となる枡形という構造をしています。
大正時代に新しく建てられた県庁舎は現在の山口県政資料館で国の重要文化財に指定されています。
100年を超えている建物のようで国会議事堂に似ているなぁと思って眺めていたら設計に携わった方が同じで国会議事堂が出来るよりも20年位前の建築だということでした。
今は資料館なので見学も可能です。
山口城のお城としての遺構は少ないかもしれませんが詰めの城となる高嶺城は戦国時代の大内氏が築いた山城で今も石垣や郭などが遺構として残っていますし城跡内に残る県政資料館は大正時代の優れたデザインは一見の価値があると思います。
戦国時代から現代にかけての歴史を感じてみてはいかがでしょうか。