
横須賀城址公園の由来となる横須賀城は、かつて、小笠丘陵末端が遠州灘におちていく大須賀町横須賀のこの地に位置していました。 築城の経緯は、天正3年(1575)長篠合戦の勝利をうけて、同6年、高天神城奪還を企図した徳川家康(当時浜松城に在城)が部将大須賀康高に命じたものとされています。砂丘を山麓に持つ小高い丘陵の地、西進すれば浜松、東進すれば相良に至る街道に面した要所に築城されることとなりました。 また、現在は陸地化していますが、かつては海に直結する内湖に南面していたことが古絵図によって判明しています。そのような水陸交通の要地を選び、北西約2キロの高天神城の喉元を扼したものであるとされています。 大須賀康高以降、大須賀忠政・[[渡瀬]わたらせ]繁詮(豊臣秀吉家臣)・有馬豊氏(同上)が城主となり、関ヶ原役以後大須賀忠政が6万石で再入部し近世横須賀藩が成立しました。以後、松平氏・井上氏・本多氏・西尾氏と城主の変遷をみて2万5千石の城として廃藩置県に至っています。 遺構としては丘陵上の天守台・本丸・西の丸・北の丸・松尾山・砂丘上の二の丸・三の丸・また松尾山北東の大空濠が今なお残っています。 城郭周囲には、北・西・南を画する堀跡があり、埋立がされているところもありますが、玉石積の石垣遺構が残っていて、『隠し堀』といわれる舟入状の堀跡は、入江に面し横須賀港をおさえていた横須賀城の特色を色濃く示しています。 徳川氏が築いた横須賀城は既指定の武田方諏訪原城、武田・徳川方の争奪地となった高天神城とあわせ、武田方の進出と衰亡、徳川氏の成長過程を示す貴重な史跡とされ、歴史的意義やその良好な保存状況から史跡指定されることとなっています。 公園内には広大な梅園があり、約2500平方メートルの敷地に80本の梅が植えられています。この場所は江戸時代、米倉があった場所ですが、現在は梅園として整備され、例年2月下旬に見頃を迎える梅の花見たさに多くの観光客が訪れています。