足利氏と新田氏と徳川氏
その立て札がなければ分からなかっただろう。足利氏宅跡は文字通り跡なので邸宅などの建物は何もなく、ただ芝生と木々とが立っているだけである。だからといってその価値を蔑んではならない。その木々たちが語り変えるように郷愁を誘ってくる。
足利氏宅跡は鎌倉時代初期の足利義兼の居館であったとされている。義兼は源頼朝が挙兵をするとかなり早い時期から頼朝に加勢をし、頼朝権勢下において着実に地位を高めていったとされていて、源義経が身を寄せた奥州藤原氏の奥州征伐にも参加していたから頼朝が叢の中から這い上がって天下を収めるまでずっと行動を共にしたことになる。しかし天下人が定まるとその権力内で力を付けて来た重臣たちの粛清が始まるのは世の常で、頼朝亡き後の実権を握った北条氏によって功労者たちは次々と滅ぼされていく。義兼は晩年出家をする。それは粛清から逃れるための処世術であったかもしれないし、もしくは人間の強欲さと妬みが渦巻く俗世間を間近に見て人の心の愚かさという悟りを開いたのかもしれない。
法名は鑁阿。その名が残ってここにあるお寺を鑁阿寺としたという。義兼という人物の詳細は分からないが、恐らく武力に秀でた武将であり、教養に長けた文化人の一面も持ち合わせていたのではないだろうか。文武両道の賢者であったことは想像に難くない。
跡地には何もない。多宝塔が涼しげに立っているだけである。木造建築の塔で小さくて派手さがない。そのないのがいい。無駄に誇張をせず時代の流れを眺めて来たのではないかと思えるほどに佇まいが良い。この塔は徳川秀忠か家光あたりの時代に再建されたものであるらしい。徳川氏は出自を新田氏としており、新田氏が足利の庄より新田の庄に分家しているという所以から徳川氏はここを先祖発祥の地として再建をして供養したのである。足利氏、新田氏、徳川氏と日本の歴史を彩って来た名門のつながりを感じられる場所となっている。
そぐ横に立つ樹齢五百年とも言われている銀杏の木は風格さえ感じられる。