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日本の城と戦国武将
蜂屋頼隆(蜂屋頼隆と城一覧)

日本の城と戦国武将

蜂屋頼隆(蜂屋頼隆と城一覧)/ホームメイト

「蜂屋頼隆」(はちやよりたか)は、戦国時代~1589年(天正17年)9月25日までを生きた戦国武将です。

蜂屋頼隆

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「蜂屋頼隆」(はちやよりたか)は、1534年(天文3年)~1589年(天正17年)まで活躍した戦国武将です。1564年(永禄7年)から、「織田信長」の家臣として勢力拡大に貢献し、「浅井長政」(あざいながまさ)と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)を討伐。それらの功績が認められ、「肥田城」(ひだじょう:滋賀県彦根市)城主となり、のちに「岸和田城」(きしわだじょう:大阪府岸和田市)に入城します。織田信長亡きあとは「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)に仕えて、「敦賀城」(つるがじょう:福井県敦賀市)の城主となりました。蜂屋頼隆は生涯で2度も城主に命じられる実力者であり、晩年には羽柴姓を授けられるなど、豊臣秀吉からも高い信頼を得た人物です。蜂屋頼隆の生涯と、ゆかりのある城についてご紹介します。

蜂屋頼隆の生涯

蜂屋頼隆は1534年(天文3年)、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)で誕生。出生の詳細は明らかになっていませんが、蜂屋氏は土豪(どごう:その土地の小豪族)であったと言われています。織田信長羽柴秀吉に従属し、1589年(天正17年)に56歳で生涯を閉じるまで、家臣として強い忠誠心を持ち続け、主君に貢献しました。

1564年(永禄7年)から、蜂屋頼隆は織田信長の家臣として活躍。「兵庫頭」(ひょうごのかみ:現在の兵庫県地域の長官)や「出羽守」(でわのかみ:現在の山形県と秋田県の長官)などと呼ばれていました。

1567年(永禄10年)、織田信長は「小谷城」(おだにじょう:滋賀県長浜市)を居城とする近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の権力者・浅井長政と同盟を組みます。しかし、織田信長は「金ヶ崎の戦い」で、浅井長政と親交がある越前国(えちぜんのくに:現在の福井県北東部)の朝倉義景を討伐。そして1570年(元亀元年)には、浅井長政を相手に「姉川の戦い」を仕掛けます。

1572年(元亀3年)、織田信長の命を受けた蜂屋頼隆は「柴田勝家」(しばたかついえ)や「丹羽長秀」(にわながひで)、「佐久間信盛」(さくまのぶもり)などと共に小谷城を攻撃。この戦いで織田軍は勝利し、蜂屋頼隆は浅井長政と朝倉義景の討伐に貢献しました。

天下人の期待に応えながら出世を重ねる

その後も蜂屋頼隆は、数々の合戦で織田信長の勝利に貢献し、1574年(天正2年)に伊勢長島(いせながしま:現在の三重県桑名市)で起きた「長島一向一揆」(本願寺派門徒による一揆)を鎮圧。同年に、近江国の肥田城城主に命じられます。

また1578年(天正6年)、織田信長に対し反旗をひるがえした「荒木村重」(あらきむらしげ)が籠る、「伊丹城」(いたみじょう:兵庫県伊丹市)攻城戦においても手腕を発揮。1579年(天正7年)には、荒木村重の妻子処刑を命じられ遂行しました。

さらに、1570年(元亀元年)~1580年(天正8年)の約11年間続いた「石山合戦」では、「織田信張」(おだのぶはる:小田井織田家出身で織田信長の遠縁)と共に、和泉地方(現在の大阪府南西部)の指揮官を拝命。結果、織田軍は各地の一揆を平定し大坂本願寺と和議を結びます。

1581年(天正9年)には、織田信張と共に岸和田城に入城。織田信張は本丸、蜂屋頼隆は二の丸に入り守備を担ったとされています。しかし、1582年(天正10年)6月に織田信長は「本能寺の変」で「明智光秀」に襲撃され自害してしまいました。以降、蜂屋頼隆は羽柴秀吉に仕えることとなったのです。

織田信長の死後間もなく、1582年(天正10年)6月13日に蜂屋頼隆は、明智光秀討伐のため羽柴秀吉が画策した合戦「山崎の戦い」に参戦し、明智光秀を追い詰めて勝利しました。

1585年(天正13年)に蜂屋頼隆は、越前国の敦賀城を築城して城主となり、4万石を拝領。さらに1588年(天正16年)、羽柴秀吉の侍従(じじゅう:君主のそばに仕える立場)に任命されて羽柴姓を与えられ、羽柴敦賀侍従(はしばつるがじじゅう)と称されます。

1589年(天正17年)、56歳で生涯を閉じましたが、蜂屋頼隆には子孫はおらず、蜂屋氏は断絶しました。

蜂屋頼隆に関連する城

蜂屋頼隆は織田信長や羽柴秀吉から功績が認められ、2度も城主に任命された人物です。蜂屋頼隆が城主となった城やゆかりのある城について、年代の古い順にご紹介します。

肥田城(ひだじょう):滋賀県彦根市

肥田城は、土豪「高野瀬隆重」(たかのせたかしげ)が、近江国守護・六角氏の命により築いたとされる平城(ひらじろ:平地に築かれた城)です。

1574年(天正2年)に織田信長の命で蜂屋頼隆が城主となったあと、1583年(天正11年)には羽柴秀吉の命によって「長谷川秀一」(はせがわひでかず)が城主となるも、長谷川秀一が他界すると廃城となりました。肥田城は現存せず、本丸があったとされる場所に石碑が立てられています。

岸和田城(きしわだじょう):大阪府岸和田市

岸和田城跡

岸和田城は、1334年(元弘4年)に「楠木正成」(くすのきまさしげ)の命により、「和田高家」(にぎたたかいえ)が築いたとされる城です。和田氏が岸と呼ばれる土地に城を建てたことから、岸和田の地名がついたとも言われています。

1581年(天正9年)に織田信張と蜂屋頼隆が入城したあとは、1585年(天正13年)に「小出秀政」(こいでひでまさ:羽柴秀吉の叔父)が城主に。1587年(天正15年)に5層の天守が完成すると、本丸と二の丸が重なる形が「ちきり」(機の縦糸を巻く器具)に似ていることから「千亀利城」(ちきりじょう)と称されました。

当時の天守閣は1827年(文政10年)に焼失しましたが、1954年(昭和29年)には3層3階の形で復元されます。その後、1953年(昭和28年)に「重森三玲」(しげもりみれい)が作庭した岸和田城庭園(八陣の庭)は、2014年(平成26年)に国指定名勝となりました。

敦賀城(つるがじょう):福井県敦賀市

敦賀城跡礎石

敦賀城は、蜂屋頼隆が1584年(天正12年)に築城した、3層天守の城です。

蜂屋頼隆の死後、1589年(天正17年)には「大谷吉継」(おおたによしつぐ)が城主となり、敦賀城を水城へ大改修して、以後12年かけて敦賀城下を整備しました。

しかし、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で、大谷吉継は「石田三成」率いる西軍に組して敗北。敦賀城は1616年(元和2年)に廃城となりました。

南北に500m、東西に300mもの広大な敷地であった敦賀城跡地には、現在も様々な遺構を見ることができます。敦賀城の北西側と伝わる「真願寺」(福井県敦賀市)には、敦賀城の礎石や城跡碑が現存。「来迎寺」(福井県敦賀市)の山門は、敦賀城の中門を移築した物と伝わっており、「八幡神社」(福井県敦賀市)には大谷吉継が寄付したとされる龍の木彫りなどが残されています。

敦賀城の主郭部であった敷地内に建つ「敦賀西小学校」(福井県敦賀市)正門には、3層天守の図や案内が刻まれた石碑が建立。敦賀城は現存しませんが、各所に残る遺構や地名などから、面影を感じることができます。

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