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日本の城と戦国武将
仙石秀久

日本の城と戦国武将

仙石秀久と城

「仙石秀久」(せんごくひでひさ)は、1552年(天文21年)1月26日から1614年(慶長19年)5月6日まで生きた戦国武将。

仙石秀久

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「仙石秀久」(せんごくひでひさ)は、1552年(天文21年)1月26日から1614年(慶長19年)5月6日まで生きた戦国武将。戦国時代から江戸時代初期の戦国大名であり、「小諸藩」(現在の長野県小諸市)の初代藩主でした。また、「豊臣秀吉」の最古参の家臣でもあり「洲本城」(兵庫県淡路市)をはじめ、いくつもの城を任されるなどスピード出世。三英傑のような誰もが知る戦国武将ではありませんが、その来歴や功績には注目すべき点が多い人物です。

順調に立身出世を遂げていた仙石秀久でしたが、九州攻めの際の戦いにおいて大失態を犯し、浪人生活へと転落。その後は再起を図って汚名返上を果たし、江戸幕府初期においても重用される大名となりました。仙石秀久は、捨て身と言えるほど勇猛果敢に戦い、一度の失敗では諦めない姿からその性格や熱意が伝わってくるほど、辛抱強く努力を重ねた人物です。ここでは、仙石秀久が歩んだ生涯と、ゆかりのある城をご紹介します。

仙石秀久の生涯

仙石秀久は、1552年(天文21年)「美濃国」(現在の岐阜県南部)の土豪であった「仙石治兵衛久盛」(せんごくじへえひさもり)の4男として誕生。父は斎藤家に仕えており、仙石秀久は4男で家督を継ぐ可能性が低かったため、一度は「越前国」(現在の福井県北東部)の豪族「萩原国満」(はぎわらくにみつ)の養子に出されます。しかし、相次いで兄が亡くなったため、再び仙石家に呼び戻され家督を継承。「斎藤龍興」(さいとうたつおき)に仕えました。

織田信長
織田信長

主君である斎藤家が「織田信長」に攻められると、仙石秀久は織田側に寝返り、1564年(永禄7年)織田信長と対面して臣従を誓約。織田信長は仙石秀久の風貌の勇ましさを気に入り、「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)の寄騎(よりき:上級家臣の指揮下にある騎馬の下級武士)に任命しました。仙石秀久は14歳で織田家入りを果たします。

仙石秀久は羽柴秀吉の馬廻衆(うままわりしゅう:大将の馬の周りに付き従う騎馬の武士で、武芸に秀でたものが務めることが多い)として各地を巡り、最古参の家臣として羽柴秀吉の寵愛を受けました。また、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った姉川の戦いにも参加。このときの功績から、1574年(天正2年)には「近江国」(現在の滋賀県)野洲郡に1,000石を与えられます。これにより仙石秀久は若くして一領主となったのです。

中国攻めの際にも羽柴秀吉に従い功績を残したことで、1578年(天正6年)には4,000石が加増。翌1579年(天正7年)には「茶臼山城」(ちゃうすやまじょう:岡山県赤磐市)を任せられました。1581年(天正9年)には「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)らと「淡路国」(現在の兵庫県淡路島)遠征を成功させ、出世街道を歩んでいきます。

1582年(天正10年)「本能寺の変」で織田信長が死去し、羽柴秀吉が次の天下取りに名乗りを上げる状況のなか、仙石秀久は淡路の豪族達を討伐し平定に貢献。続く「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)では、柴田勝家と手を組んだ「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)と対峙するため四国に赴きます。ところが、長宗我部軍は手ごわく仙石秀久は敗走。この戦いの中で、仙石秀久は幟(のぼり)を取られるという大失態を犯しました。幟は、当時の武将にとって非常に大切な武具であり、それを敵に奪われてしまうのは大変な失態。しかし、仙石秀久は淡路と小豆島の守りを固めることに専念、目的は達成されました。

この功績が評価され、1583年(天正11年)、仙石秀久は淡路国5万石を拝領し洲本城に入城。その後も複数の水軍を統括し四国平定でも活躍を見せ、1585年(天正13年)には「讃岐国」(現在の香川県)を与えられ、「聖通寺城」(しょうつうじじょう:香川県綾歌郡)、「高松城」(香川県高松市)に入りました。こうして、仙石秀久は10万石の大名となったのです。

羽柴秀吉のもとで順調に力を伸ばしていた仙石秀久は、1586年(天正14年)に九州平定がはじまると四国勢の軍監に任命されます。四国平定ののちに味方となった長宗我部元親らとともに先陣として現地に向かいましたが、ここで羽柴秀吉(1586年豊臣秀吉へと改姓)の命に従わず進軍した「戸次川の戦い」(へつぎがわのたたかい)で大敗。激怒した羽柴秀吉により改易・謹慎処分となった仙石秀久は、浪人生活を送ることとなったのです。

しかし、1590年(天正18年)に小田原の役(小田原征伐)が始まると、仙石秀久は3男の「仙石忠政」(せんごくただまさ)とともに美濃国で旧臣を集め、豊臣秀吉のもとへと参陣。その際に仲介役を務めたのが「徳川家康」でした。仙石秀久はこの戦に再起をかけ、勇猛果敢に戦います。この活躍を見た豊臣秀吉が仙石秀久の働きを褒め称え、金の団扇を与えたとの逸話も残っているほどです。

こうして豊臣秀吉から再び認められた仙石秀久は「信濃国」(現在の長野県)小諸5万石を与えられ、大名として復帰を果たしました。その後の仙石秀久は、豊臣秀吉に尽くすため自国よりも京にいることが多く、「名護屋城」(佐賀県唐津市)や「伏見城」(京都市伏見区)築城に際して功績を挙げ、7,000石が加増。豊臣秀吉が亡くなると、仙石秀久は恩のあった徳川家康に協力し、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では東軍に参加しました。徳川家康の息子「徳川秀忠」はこの関ヶ原の戦いに遅れてしまいます。激怒する徳川家康に対し、これを取り成したのが仙石秀久。こうして徳川秀忠の信頼を得た仙石秀久は、徳川秀忠が征夷大将軍となった際、特に重用されたと言われています。

1614年(慶長19年)、江戸から小諸への帰還途中で発病。そのまま武州鴻巣(現在の埼玉県)にて、63歳で帰らぬ人となりました。

仙石秀久と戸次川の戦い

「戸次川の戦い」は、羽柴秀吉による九州平定の中で、1586年(天正14年)に起きた戦いです。「島津家久」(しまづいえひさ)率いる島津軍と、仙石秀久率いる羽柴軍が「豊後国」(現在の大分県)で激突。仙石秀久が改易・謹慎処分となる原因となった戦でもあります。

大友宗麟
大友宗麟

当時の九州では島津家の勢力が大きく、豊後国の「大友宗麟」(おおともそうりん)は島津義久の侵攻を訴え、羽柴秀吉に救援を求めました。羽柴秀吉はこれを了承し仙石秀久を軍監に任命。長宗我部元親らとともに出陣を命じ、仙石秀久らは戸次川に陣を敷きます。

仙石秀久自身は3,000の兵を率いており、同盟の大友軍の兵力を合わせれば2万を超え、島津軍を上回る兵力が集まるはずでした。しかし、現地での島津軍の猛攻は凄まじく、大友軍は士気に乏しいばかりか有力家臣を失って劣勢となります。

羽柴秀吉は、本隊の援軍が来るまで待ち、防備を固めるように命令。しかし、援軍はなかなか到着しないうえ、その兵の数も6,000程度と心もとなく、さらに元々敵対勢力であった長宗我部元親の軍と合同でつくられた軍は結束力も低い不安な状態。仙石秀久はこれに焦りを覚えます。

そのような状況下で、軍略会議において仙石秀久は攻撃を仕掛けるべきだと主張するも、長宗我部元親らが制止。しかし、仙石秀久はこれを聞き入れず、羽柴秀吉の命令に背いて援軍の到着を待たずに独断で攻勢に出たのです。

仙石秀久の部隊は敗走。長宗我部元親の息子である「長宗我部信親」(ちょうそがべのぶちか)も討死し、結果は大敗となりました。さらに仙石秀久は、家臣を残して讃岐国まで退却していました。これに激怒した羽柴秀吉は、讃岐国を没収し仙石秀久を「高野山」(和歌山県伊都郡)へと追放。謹慎処分となった仙石秀久は浪人生活を送ることになったのです。

仙石秀久またの名を鈴鳴り武者

徳川家康
徳川家康

九州攻めの戸次川の戦いにおいて大失態を犯した仙石秀久は、こうして改易・謹慎処分となり、大名から浪人の身分に転落。4年後の1590年(天正18年)、小田原の役(小田原征伐)がはじまることを聞きつけた仙石秀久は、「陣借り」の取り成しを徳川家康から受けることに成功し、20人の浪人を引き連れて豊臣秀吉のもとへと馳せ参じます。陣借りとは、正規軍ではない者が自費で合戦に参加すること。仙石秀久にとっては汚名返上、再起を図るまたとないチャンスです。

このとき、仙石秀久は大変派手な格好で戦に参加。白い尾のような物がついた粕尾の兜、白練りに赤い日の丸を付けた陣羽織に身を包んでいました。そして陣羽織一面には鈴が縫い付けられており、彼が動けばチリンチリンと鈴の音が鳴ります。この出で立ちから「鈴鳴り武者」の異名を取ったと言われているほど。その異様とも言える姿は、戦場において目立つことは間違いありません。これは、仙石秀久が敵兵を一身に引き付け死をも恐れず戦うという覚悟の現れでした。

戦地において、仙石秀久は目ざましい活躍を見せます。紺地に「無」の字を白く出した馬印を掲げ、十文字をふるって果敢に奮戦。小田原城早川口攻めでは最も要所にある入口を占拠するという武功を挙げます。箱根の地名となっている「仙石原」は、このときの仙石秀久の姿に由来するという説があるほど。それだけ仙石秀久の戦いぶりは素晴らしかったのです。

こうして見事な戦いぶりを見せた仙石秀久は、豊臣秀吉にその忠勇を称され信濃国小諸5万石を受領し、大名への復帰を果たしました。なお、羽柴秀吉の死後、仙石秀久はこのときの恩から徳川家康に協力。このエピソードからも、仙石秀久の人柄をうかがい知ることができます。

仙石秀久に関連する城

数々の武功を挙げた仙石秀久は、その功績から各地の城を任された人物。また、築城や改修を手掛けることも少なくありませんでした。ここでは、仙石秀久の居城やかかわった城について、年代順に見ていきましょう。

洲本城(すもとじょう):兵庫県淡路市

洲本城
洲本城

洲本城は、1526年(大永6年)に三好家の重臣「安宅治興」(あたかはるおき)が築城。その後は安宅家に代々受け継がれ、1581年(天正9年)の淡路攻めにより、仙石秀久に与えられました。

仙石秀久が改易となったあとは「脇坂安治」(わきさかやすはる)が城主となり、天守の造営と石垣の改修がなされ、山の麓から山頂に向かって作られた「登り石垣」が築かれます。これは朝鮮半島の倭城の防備を固めるための手法。脇坂安治は朝鮮半島でその技術を得て、洲本城の石垣に用いました。これは全国的に見ても珍しい遺構です。

曲輪、池、石段、石垣、跡などが現存。また1928年(昭和3年)に鉄筋コンクリート製で模擬天守が造られました。

引田城(ひけたじょう):香川県東かがわ市

引田城
引田城

引田城は、室町時代に築城されたと言われる平山城。1583年(天正11年)に起こった「引田の戦い」は、この城が舞台となっています。当時の四国では、長宗我部元親が四国統一に向けて動いていました。しかし、中国平定を目指した織田信長はこれをよしとせず、長宗我部元親と織田信長は敵対関係となったのです。織田信長は1582年(天正10年)に四国攻めの準備を開始。しかし同年、織田信長は本能寺の変で横死し、四国攻めは頓挫します。

1583年(天正11年)、主導権争いをしていた柴田勝家と羽柴秀吉は一触即発となり、「賤ヶ岳の戦い」が起こりました。そのため、四国に対しては羽柴秀吉の家臣であった仙石秀久が遣わされたのです。淡路国にいた仙石秀久は、まず引田城に入り情報を収集。長宗我部軍が引田城に向かっていることを知ると、引田城から離れた場所に兵を忍ばせました。そして、引田城に向かう途中の長宗我部軍に奇襲をかけ、撃退に成功。しかし、数で勝る長宗我部軍は態勢を立て直し反転、徐々に形勢は逆転していきました。仙石秀久は多くの犠牲を出し、引田城へ退却します。翌日、引田城は長宗我部軍に包囲され、仙石秀久は敗走しました。

一旦は退きましたが、四国平定後、仙石秀久は再度引田城に入城。改易される1587年(天正15年)まで城主となりました。遺構などは残っていませんが、2000年(平成12年)には城山国有林として市指定史跡に、2020年(令和2年)に東かがわ市内初の国の史跡に指定されています。

上田城(うえだじょう):長野県上田市

上田城
上田城

上田城は、1583年(天正11年)に築城された平城。小田原の役(小田原征伐)の活躍により大名に復帰した仙石秀久は、信濃国小諸城主となりました。その後、1600年(慶長5年)の「第二次上田合戦」の際には、仙石秀久も上田城攻撃と破却に参加します。仙石秀久の死後、1622年(元和8年)に仙石秀久の3男である仙石忠政が小諸から入封。この時点で廃墟同然であった上田城を復興するため、仙石忠政は幕府に許可を得ます。

結局、完成を見ないまま仙石忠政は死亡。しかし、わずか2年の間に埋められたをもとに戻し、本丸の体裁を整え、さらには石垣を作り上げるなど、復興はかなり進んだ状態でした。そして、仙石忠政の死により仙石氏は転封。藩主は松平氏に交代しました。

現在は旧二の丸が上田城址公園となっており、花見の時期には多くの人で賑わいを見せています。

小諸城(こもろじょう):長野県小諸市

小諸城
小諸城

別名「穴城」と呼ばれる小諸城。1487年(長享元年)に「大井光忠」(おおいみつただ)が「鍋蓋城」を、1533年(天文2年)に「乙女城」を築城したことがはじまりだと言われています。その後、「武田信玄」の侵攻により落城し、小諸城が築かれました。

1590年(天正18年)、再起後の仙石秀久が小諸に封じられ改修を開始。現存する遺構は仙石秀久の改修後の物で、三重天守もこの頃に作られました。仙石秀久は、約23年の年月をかけて、華美な装飾を省いた質実剛健な小諸城を近世城郭として再生。天守には桐紋の金箔押瓦が使われていましたが、落雷により焼失しています。

城郭が城下町よりも低い場所にあり、市街地から城内を見渡すことができたため、穴城という別名が付けられました。この城下町を整備したのも仙石秀久の功績。現在は市営公園小諸城址懐古園として一般公開されており、園内には小諸市動物園や児童遊園地、小山敬三美術館などの施設があります。また旧城郭の馬場跡にはソメイヨシノが植えられ、日本さくら名所100選にも選定されている名所です。

伏見城(ふしみじょう):京都府京都市

伏見城
伏見城

1592年(文禄元年)、豊臣秀吉が隠居後の住まいとするために建設を始めたのがはじまり。仙石秀久はこの築城工事に携わっています。伏見城では、大泥棒として有名な「石川五右衛門」(いしかわごえもん)を仙石秀久が捕縛したという、次の逸話が残されています。

1594年(文禄3年)、石川五右衛門は豊臣秀吉暗殺のため、伏見城の寝所に侵入。その際、枕元の「千鳥の香炉」が鳴き出しました。最初に駆け付けた仙石秀久が石川五右衛門をねじ伏せて捕縛。この「千鳥の香炉」が、褒美として仙石秀久に与えられたというエピソードです。

また、豊臣秀吉はその晩年を伏見城で過ごすことが多くなり、この城で自らの死後を家臣達に託して逝去。伏見城はその後、徳川家の支配下に置かれました。

  • 豊臣秀吉の家臣団のうち、最古参の武将として知られる仙石秀久の生涯を、数々の逸話や戦歴と共に振り返りながら、その人物像に迫っていきます。

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