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日本の城と戦国武将
松永久秀

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松永久秀と城

「松永久秀」(まつながひさひで)は、1577年(天正5年)10月10日まで生きたと言われる戦国武将です。

松永久秀

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「松永久秀」(まつながひさひで)は、1577年(天正5年)10月10日まで生きたと言われる戦国武将です。松永久秀の異名は、「戦国三大梟雄」(せんごくさんだいきょうゆう)のひとり、「乱世の奸雄」(らんせいのかんゆう)など。奸雄とは「わるがしこくて獰猛な人物」という意味ですが、そんなイメージを持たれるのは、「永禄の変」や「東大寺大仏殿の戦い」に関与したとされていることが要因です。しかし、松永久秀の足跡を辿ってみると、下剋上の先駆者とも言われる「三好長慶」(みよしながよし)に重用され、多才さをいかんなく発揮して三好政権の確立に功のあった、極めて有能な武将でもあったことが分かります。

「大和国」(現在の奈良県)を治めた松永久秀は、「信貴山城」(しぎさんじょう:奈良県生駒郡平群町)、「多聞山城」(たもんやまじょう:奈良県奈良市)などの城主を歴任。「筒井城」(つついじょう:奈良県大和郡山市)を巡っては、「筒井順慶」(つついじゅんけい)と激しく争ったことでも有名です。ここでは、そんな松永久秀の生涯と、ゆかりの深い城についてご紹介します。

松永久秀の生涯

松永久秀の生年や出生地の詳細は不明。生まれは「阿波国」(現在の徳島県)・「山城国」西岡(現在の京都市西京区)、「摂津国」五百住(現在の大阪府高槻市)、など諸説あります。実家は商人である、もしくは土豪(どごう:地元の有力者)出身という説も存在。いずれにしても生まれたときの身分は高くなく、「豊臣秀吉」や「斎藤道三」(さいとうどうさん)のような、低い身分から立身出世を果たしていった、いわゆる成り上がり者であったと言われています。

畿内の覇者・三好長慶の重臣となる

三好長慶
三好長慶

1533年(天文2年)頃、阿波国の守護・細川氏に仕える三好長慶の右筆(ゆうひつ:書記役)に就任。三好長慶は、「織田信長」が台頭する前の戦国武将で、京都や大阪など関西を中心に支配し、その権力は将軍家をも凌ぎ「天下人」だったと評価される人物です。

阿波出身の三好長慶が、畿内(大阪・京都・奈良を中心とする関西地域)で力を蓄えていた頃、松永久秀に目を付けて外様の家臣に取り立てたと言われています。それだけ松永久秀には、三好長慶の目に適う能力があったということ。

松永久秀は、三好長慶の下で公家や寺社との土地交渉、幕府との折衝や利害調整の方面で結果を残すと、三好家の家宰に昇進。三好家の諸事万端を取り仕切る役目を任されたのですから、重臣と言えます。主の三好長慶は破竹の勢いで、主であった細川家から権力をもぎ取って、畿内で一番の権力者にのし上がり、臣下である松永久秀も「摂津滝山城」(神戸市中央区)城主に抜擢されるなど、ますます重用されていきました。

畿内で三好政権が樹立したとは言え、それまで権勢を誇っていた足利将軍家や、三好氏の主家である細川氏が指をくわえて見ているはずもありません。そのため、畿内は非常に政情不安定で不穏な状況。室町幕府第13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)・「細川晴元」(ほそかわはるもと)の軍が京都郊外の東山に攻め上る気配を見せたところ、松永久秀は一軍を率いて対峙。一戦交えたあと、和睦が成立しました。

松永久秀は、軍事の指揮を執るだけでなく、幕府や足利将軍家と三好家の仲介役としても活躍。活発で、何かと役に立つ松永久秀を三好長慶は厚く信頼し、ますます重用するようになりました。そのため、松永久秀の勢いと立場は、三好家嫡男である「三好義興」(みよしよしおき)を凌ぐほどになっていったのです。

三好長慶の死、「三好三人衆」との対立

その後、松永久秀は室町幕府からも取り立てられ、足利義輝の御供衆(おともしゅう:室町幕府将軍のお供)に就任。三好長慶の側近でありながら、将軍に仕える幕臣にも昇りつめました。また、三好長慶の命で侵攻した大和国では、大和国を治めていた筒井順慶から筒井城を奪取。在地勢力を掃討しながら支配下に治めていきます。また、信貴山城や多聞山城で采配を振るいながら統治しました。

松永久秀が権勢を拡大していく一方、三好家は嫡男の三好義興をはじめ、一族の者が相次いで亡くなるなど、徐々に衰退。そして、1564年(永禄7年)には、三好長慶までもが亡くなります。畿内に打ち立てられた三好政権は、三好家の一族と重臣であった「三好長逸」(みよしながやす)、「三好宗渭」(みよしせいい)、「岩成友通」(いわなりともみち)の3人、いわゆる三好三人衆と松永久秀が中心になって運営していくことになりました。

室町幕府が没落し、一方で三好家や松永久秀らがのし上がり、下剋上の気風が充満するなか、驚くべき大事件が発生。1565年(永禄8年)、三好一族らが将軍邸を襲撃し、足利義輝を殺害した永禄の変です。将軍が家臣に殺害された前代未聞の事件には、松永久秀も関与したと長年言われてきました。しかし、近年の研究によると関与したのは息子の「松永久通」(まつながひさみち)。松永久秀はそもそも現場にいなかったと、無関係を主張する説も登場しています。

織田信長に接近、最期は信貴山城で壮絶に散る

織田信長
織田信長

永禄の変以降、松永久秀と三好三人衆は畿内の権力を巡って対立。一時期戦いに敗れた松永久秀は、大和を離れます。しかし、三好長慶のあとを継いで当主となった甥の「三好義継」(みよしよしつぐ)も、政権を牛耳る三好三人衆と対立。松永久秀は三好義継と協力し、三好三人衆の野望を抑え込もうと戦いました。この抗争のなか、1567年(永禄10年)10月10日には東大寺大仏殿の戦いが発生。東大寺に陣を構えていた三好三人衆に対し、松永久秀が攻め入ったことで東大寺大仏殿が焼失してしまいます。

1568年(永禄11年)、信貴山城に戻っていたところを三好三人衆に攻められ、城を脱出。その後、「尾張国」(現在の愛知県西部)の織田信長の下へ走りました。この頃、織田信長は室町幕府第15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を擁して入京。京都支配に乗り出していました。松永久秀は、以前から頭角を現してきた織田信長に目を付け、交流をもっていたのです。

松永久秀は、織田信長の後ろ盾で、再び大和一国を支配。織田信長の京入り後、松永久秀の宿敵でもある三好三人衆や筒井順慶は、弱体化あるいは傘下に収まるなどしたため、松永久秀にとって事態は有利に働きます。しかし、織田信長との関係は当初の同盟関係から主従関係へと変化。松永久秀は織田信長の家臣になることに抵抗を覚えたのか、少しずつ距離を置くようになります。そして、「武田信玄」や「朝倉義景」(あさくらよしかげ)といった反織田勢力と連絡を取り合うなど、怪しい動きを見せはじめるのです。

松永久秀はついに織田信長に対し謀反を起こします。しかし、1573年(天正元年)、多聞山城に在城していたところを織田信長に包囲され、降伏。再び織田家に仕えることになりました。

しかし、松永久秀は一度上げた反織田信長の旗を下ろすことはありません。1577年(天正5年)、再び謀反を起こして信貴山城に立て籠りました。そして織田信長の大軍に包囲され、最期を悟った松永久秀は、天守に火をかけて自ら命を絶ったのです。乱世で独自の色を見せた武将の壮絶な最期でした。

松永久秀と信貴山城の戦い

「信貴山城の戦い」は、1577年(天正5年)5月、謀反を起こした松永久秀を討伐すべく、織田信長が嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)に軍勢を預け、大和国の信貴山城に攻め込んだ戦いです。織田信長は以前にも松永久秀に裏切られましたが、そのときは許しました。しかし、松永久秀が再び背いたため、討伐に踏み切ったという経緯があります。

石山本願寺
石山本願寺

松永久秀は、息子・松永久通とともに織田信長の命で「石山本願寺」を攻撃。石山本願寺と向かい合う「天王寺」に築かれた砦に籠っていましたが、突然、松永久秀父子は持ち場を離れて本拠地である信貴山城に籠ったのです。

織田信長は、家臣の「松井友閑」(まついゆうかん)を遣わし、松永久秀の本意を問います。しかし、織田信長のそんな配慮にも松永久秀は応じません。そこには、強い謀反の意志がうかがい知れます。最終的に両者は相まみえることになったのです。

松永久秀討伐の総大将を命じられた織田信忠は、「羽柴秀吉」、「佐久間信盛」(さくまのぶもり)、「明智光秀」、「丹羽長秀」(にわながひで)らをそれぞれ配置に就け、夜間に城攻めを開始。総勢4万にも上る大軍を相手に、松永勢は防戦したものの、圧倒的兵力差に敗北。万策尽きた松永久秀は天守に火をかけ、城とともに火に巻かれて壮絶な最期を遂げたのです。

特筆すべきは、織田信長が2回も裏切った松永久秀を、態度次第では許すという気配があったこと。普通であれば問答無用で征伐するところを、織田信長は松永久秀の才能を惜しんでいた可能性があります。

松永久秀の最後とお墓

達磨寺
達磨寺

松永久秀は自ら信貴山城に火を放ったあと、自害して果てました。織田信長が所望した平蜘蛛(ひらぐも:茶の名器)をたたき割り、火薬装置を仕掛けて城もろとも爆破したとする爆死説が有名ですが、これは後世の創作だと言われています。「信長公記」(しんちょうこうき)によると、松永久秀の最期は焼死だと記載。松永久秀は、1567年(永禄10年)10月10日に東大寺大仏殿を焼き払ったことから、世の人々は「仏罰だ」と噂しました。松永久秀が死亡したのも10月10日だったことから、そのような噂が駆け回ったと言われているのです。

松永久秀の遺体は、大和国を巡って激しく争った宿敵・筒井順慶が「達磨寺」へ丁重に葬ったとされています。

松永久秀に関連する城

大和の支配者として君臨した松永久秀は、信貴山城を奪い、多聞山城を築城。多聞山城はのちの近世城郭の主流となった「多聞櫓」(たもんやぐら)発祥とも呼ばれる画期的な造りの城でした。ここでは、松永久秀にかかわる城をご紹介します。

信貴山城(しぎざんじょう):奈良県生駒郡

信貴山城址
信貴山城址

信貴山城は松永久秀が織田信忠軍と激しい籠城戦を展開した城。1536年(天文5年)に畠山氏家臣の木沢長政によって築城されました。当地には南北朝の英雄「楠木正成」(くすのきまさしげ)が築いた砦があったとも言われています。信貴山城は、標高約437mの信貴山山頂に建つ山城。大和支配の拠点となりました。一度は、木沢長政の敗死とともに焼失。その後、大和に入国した松永久秀が1559年(永禄2年)に大規模な修築・拡張工事を行い、4重の天守を築いたのです。

1568年(永禄11年)、筒井順慶と三好三人衆によって城を奪われるも、織田信長の助力もあって松永久秀が奪還。再び大和を平定しました。しかし、今度は織田信長に反抗したことで追討され、1577年(元正5年)に信貴山城は落城。松永久秀は天守に火をかけ、城と運命を共にしました。信貴山城の戦い後は廃城。堀や土塁、門跡などが現存しています。

多聞山城(たもんやまじょう):奈良県奈良市

多聞山城は松永久秀が1560年(永禄3年)、興福寺勢力の抑えとして築いた城。眉間寺山(みけんじやま・のちに多聞山と呼ばれるようになる)に築かれた平山城であり、東大寺や興福寺を見下ろす場所にあったことから、大和支配の戦略拠点に適していました。城壁と倉庫をかねるは、そのあとの近世城郭に多く採用された多聞櫓の起源とされています。

三好長慶の命で大和に侵攻した松永久秀は、信貴山と多聞山に城を建造。筒井氏や興福寺勢力を平定し、大和を支配下に治めました。永禄の変で足利義輝が暗殺されたあと、三好三人衆と手を組んだ筒井順慶との間で激しい抗争を展開。1567年(永禄10年)の東大寺大仏殿の戦いでは、大仏殿を焼失させながらも勝利を手にしました。その後、松永久秀は織田信長に対する謀反により攻められ、多聞山城は破却。現在は、多聞山城跡と刻まれた石碑が城跡地の中学校に建立されています。

筒井城(つついじょう):奈良県大和郡山市

筒井城は1430年(永享2年)に築城されました。大和に侵攻した松永久秀がこの城を巡って筒井順慶と激しい攻防戦を展開。寺社勢力から武家勢力となった筒井氏は、7代にわたって筒井城を拠点とし、大和支配を進めていました。

1565年(永禄8年)、松永久秀は軍勢を率いて筒井城を急襲。城主である筒井順慶は一族もろとも城を追われます。翌1566年(永禄9年)、筒井順慶が松永久秀の不在を狙って城を取り戻しました。その後、筒井順慶は地の利がある「郡山城」(奈良県大和郡山市)に本拠地を移転。1580年(天正8年)、織田信長による「諸城破却令」により大和の城はすべて破却され、今では堀の一部が現存するのみです。

滝山城(たきやまじょう):兵庫県神戸市

滝山城
滝山城

滝山城は戦国時代に松永久秀が居城として用いた城。滝山城に入った松永久秀は、三好長慶の命で城主となり、大がかりな改修工事を試みました。また滝山城は、神戸の街を見下ろす位置(標高約316m)に築かれた山城です。築年は未詳ですが、鎌倉時代には「播磨国」(現在の兵庫県南西部)守護であった赤松氏の居城だと伝える文献もあります。1566年(永禄9年)、松永久秀の不在時に三好三人衆に攻められ、落城しました。その後、織田信長配下となった「荒木村重」(あらきむらしげ)が入城。しかし、荒木村重が織田信長を裏切ったことにより、織田軍に攻め落とされました。その後は廃城となり、現在は一部の曲輪跡が確認できるのみです。

辰市城(たついちじょう):奈良県奈良市

辰市城は、筒井城を松永久秀に奪われた筒井順慶が、その雪辱を果たすために部下に命じて造らせた陣城(じんじろ:合戦用に造る臨時の城)。松永久秀の本拠地でもある多聞山城の南に築城され、堀と柵に囲まれていました。筒井順慶の軍は国衆達を味方に付け、攻めてきた松永久秀方1万人の軍勢を圧倒。500人余りの首を討ち取りました。筒井順慶と松永久秀のこの一戦は、大和最大の合戦とも呼ばれ、筒井順慶はこれを機に織田信長に臣従。大和守護に任ぜられました。現在は、石碑や城跡もほとんど残っていません。

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