ご希望の日本の城情報を無料で検索できます。ホームメイト・リサーチTOP

トップページへ戻る

刀剣ワールド/城

日本の城と戦国武将
武田信玄

日本の城と戦国武将

武田信玄と城

「武田信玄」(たけだしんげん)は、1521年(大永元年)11月3日~1573年(元亀4年)4月12日までを生きた武将です。

武田信玄

文字サイズ

「武田信玄」(たけだしんげん)は、1521年(大永元年)11月3日~1573年(元亀4年)4月12日までを生きた武将です。戦国時代、武田信玄の率いた武田軍は圧倒的な強さを誇り、多くの戦を制しています。武田軍の掲げた「風林火山」の軍旗は、多くの戦国武将を震え上がらせたことでしょう。そんな武田信玄の生涯と、彼とゆかりのある城についてご紹介していきます。

武田信玄の生涯

武田信玄と父の武田信虎
武田信玄と父の武田信虎

1521年(大永元年)、甲斐の大名「武田信虎」(たけだのぶとら)の嫡男として、武田信玄は生まれました。武田信虎の正室である「大井の方」(おおいのかた)は、戦が起こったときの武田家の避難先である要害山城(ようがいさんじょう)にて、武田信玄を出産しています。

1541年(天文10年)、21歳となった武田信玄は大きな決断をしました。領民に高い税を課したり、家臣を平気で殺めたりと、悪政を敷いていた父・武田信虎を甲斐から追放したのです。これにより、武田信玄は若くして甲斐国の大名となります。
武田信玄は自国に攻めこんでくる隣国・信濃の大名たちと戦いました。なかでも手強かったのは「葛尾城」(かつらおじょう)を拠点にする武将「村上義清」(むらかみよしきよ)。その村上義清と対峙した「上田原の戦い」は、武田信玄の生涯で初となる負け戦となります。しかしそれからも、村上義清をはじめとした信濃の大名たちと戦を繰り広げた末に、1553年(天文22年)に村上義清を信濃から逃走させることに成功したのです。戦場で経験を重ねて猛将へと成長した武田信玄は、「甲斐の虎」と呼ばれるようになりました。

信濃から逃走した村上義清を庇護したのが、越後の大名「上杉謙信」です。「越後の龍」と呼ばれるほど武勇に長けた上杉謙信が武田信玄のライバルということは、多くの方がご存知でしょう。ふたりは越後の川中島で5回も激突しました。
4回目の戦いではこんな逸話が生まれています。武田軍の本陣を見つけた上杉謙信は馬を駆り、突撃しました。そして、大将同士の一騎打ちが実現します。
渾身の一太刀を浴びせる上杉謙信と、それを軍配で受け止める武田信玄。その後、武田軍の兵がふたりの間に割って入ったことにより、一騎打ちの決着が付くことはありませんでした。
この一騎打ちのように、川中島で行なわれた5回の戦いでも武田軍と上杉軍の勝敗が付くことはなかったのです。

1572年(元亀3年)、武田信玄は室町幕府の将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)から、ある要請を受けました。それは尾張の武将・織田信長の討伐です。武田信玄は織田信長の本拠である美濃の岐阜城を目指して、甲斐から西へ進軍します。その道中で、織田信長と同盟を結ぶ徳川家康を討ち取るべく、徳川家康の領地である遠江に侵攻。徳川家康を「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)で破り、三河にある敵の拠点・野田城まで落とします。この勢いのまま織田信長を倒して天下統一を果たすのか、というところで運命の時が訪れたのです。

1573年(元亀4年)、武田信玄は病により旅立ちました。享年53歳。武田信玄は「自分の死を3年間隠すように」という遺言を残しています。その理由は、自分が死去したことが広まり、甲斐が隣国の大名たちに攻められることを恐れたからです。
死を間近にしても自国のことを案じるとは、その情の厚さには感服するしかありません。武田信玄は、人の上に立つのにふさわしい人物だったのでしょう。

武力だけではなく政治力にも優れていた武田信玄

「甲斐の虎」武田信玄
「甲斐の虎」武田信玄

「甲斐の虎」と呼ばれるだけあり、圧倒的な強さで知られる武田信玄。しかし、実は軍事面だけではなく政治面でもその手腕を発揮しています。

武田信玄の設けた政策のなかでも有名なのが「甲州法度」という法令です。この法令は全57ヵ条にも及び、家臣団の統制を取ることが主な目的だったと言われています。
例えば、「喧嘩両成敗」という取り決めは、家臣同士で揉めごとが起きた場合は、双方に罪があるとしました。こうなると、家臣たちは相手に非があったとしても、処罰を恐れて揉めごとを回避したことでしょう。武田信玄は法令を定めることによって、家臣たちの間から諍いをなくしたわけです。
他にも、武田信玄は独自の政策を打ち出して、甲斐の経済を発展させました。
領民が洪水で苦しんでいた際は、治水事業に着手します。「信玄堤」と呼ばれる堤防を造りあげたことにより、洪水が起きづらくなり、その結果、米の収穫量が増加しました。
また、金山の開発にも力を注ぎます。金山で取れた資源を「金貨」にして流通させると、領民の生活が潤いました。

「人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」これは武田信玄の名言のひとつです。「どれだけ城を強固にしても、人の心が離れてしまえば国を治めることはできない」という意味が、言葉のなかにこめられているとされています。
その言葉の通り、武田信玄は大名として政治をしっかり行ない、家臣や領民からの信頼をなにより大事にしたのです。

武田信玄の生涯で最大の敗戦と言われる「砥石崩れ」

「上田原の戦い」で村上義清に敗れた武田信玄は、村上義清にリベンジを果たすために再戦を挑んでいますが、返り討ちに遭っています。これが武田信玄の生涯で最大の敗戦と言われる「砥石崩れ」です。

1550年(天文19年)、武田信玄は村上義清の籠城する信濃の砥石城を攻めていました。この城が小規模なのに加えて、武田軍7,000ほどに対して城内の兵は500ほど。武田軍が圧倒的有利だったのにもかかわらず、砥石城は約1ヵ月も持ち堪えたのです。なぜかと言うと、城内の兵たちの半数はかつて武田軍に敗れたことのある者たちで、雪辱を果たすために士気が高かったからです。城内の兵たちは攻めてくる武田軍に対して石や熱湯を浴びせて、城を死守します。
結局、武田信玄は敵の援軍が迫ってきたことにより、城からの撤退を決断しました。犠牲者の数は村上義清の軍が200ほどに対して武田軍は1,000ほど。またしても、武田信玄は村上義清に苦汁を飲まされたのです。
それにしても、戦国最強とも言われる武田信玄を2度も破るとは、村上義清はなんと勇猛な武将でしょうか。武田信玄のライバルは上杉謙信ですが、天敵は村上義清と言えそうです。

武田信玄の策が的中した「二俣城の戦い」

武田信玄には、「正攻法で戦う猛将」というイメージが定着しています。このイメージが定着したのは、精鋭揃いの「武田の騎馬隊」で敵を圧倒していたからでしょう。しかし、そんな武田信玄が、正攻法ではなく策を講じて城攻めをしたという、珍しい逸話が残っています。

1572年(元亀3年)、徳川家康を倒すためにその領地である遠江に入っていた武田信玄は、敵の居城のひとつである「二俣城」(ふたまたじょう)を攻めていました。武田軍27,000ほどに対して、城内の敵兵はわずか1,200ほど。これほど圧倒的な戦力差がありながら、武田軍は攻めあぐねていたのです。
その理由は、ふたつあります。ひとつは、二俣城が川と川の交わる地点にあったため、川が天然の堀として機能したこと。もうひとつは、城の入口がひとつしかなく、しかもその入口の前が急な坂道となっていたことです。

自軍から多くの犠牲者が出たことにより、武田信玄は正攻法をあきらめて、策を考え出しました。それは、二俣城の水の供給を絶つというものです。
二俣城には井戸がない代わりに、川につるべを降ろして水を汲み上げることのできる施設がありました。武田信玄はその施設を破壊するために、川の上流からイカダを流します。イカダの激突により施設は崩壊。水の供給が絶たれた二俣城内の兵たちは城を捨てて撤退し、武田信玄の策が功を奏したのでした。

策と言えば、智将と呼ばれた「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)や「真田昌幸」(さなだまさゆき)を思い浮かべる方が多いでしょう。しかし、実は武田信玄も策を講じる智将としての顔を持っていたのです。

武田信玄に関連する城

その生涯で70戦以上の戦に身を投じて、約50勝もした戦の名人である武田信玄。戦に勝って領土を広げると、その土地にあった城を奪うほど、城を手に入れることにはこだわっていました。もしかすると、勝利の山を築いたその戦術論の肝は城にあるのかもしれません。
ここでは武田信玄とかかわった躑躅ヶ崎館、要害山城、高遠城、松代城、牧之島城、高根城をご紹介します。なお、6つの城は武田信玄とかかわった年代が古い順に並べました。

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた):山梨県甲府市

1519年(永正16年)、武田信玄の父である武田信虎によって築城されたのが躑躅ヶ崎館です。武田信虎の息子・武田信玄と孫である「武田勝頼」(たけだかつより)も、この城を本拠にしています。
武田信玄は領地を拡大させていきましたが、居城を躑躅ヶ崎館から移すことはありませんでした。父である武田信虎を甲斐から追放した武田信玄ですが、もしかすると父が築城したこの城に特別な思いがあったのかもしれません。

躑躅ヶ崎館には、外から水を引き入れて建設された水洗式のトイレがありました。そこには机や筆が置かれており、武田信玄はトイレのなかで手紙を書いたり、作戦を考えたりしたと言われています。

1919年(大正8年)、躑躅ヶ崎館の城跡に「武田神社」が建立されました。現在も、境内にある「茶の湯井戸」は躑躅ヶ崎館時代からあるものです。かつて武田信玄は茶人を招いた際に、この井戸の水で茶をたてたと言われています。
また、この井戸には「姫の井戸」という別名も。武田信玄の娘が生まれたときに産湯として使われたことが、この別名の由来です。

要害山城(ようがいさんじょう):山梨県甲府市

1519年(永正16年)、躑躅ヶ崎館が窮地に陥ったときの避難先として築城されたのが、要害山城です。実際に、武田信玄を懐妊中だった大井の方も、この城に避難しているときに出産しました。
躑躅ヶ崎館の北東にある要害山の西側が、要害山城の築城地です。周辺に郭や堀、城門を設置したことにより、この城は高い防衛力を獲得しています。
躑躅ヶ崎館と同じく、武田信虎、武田信玄、武田勝頼の武田家3代に拠点として利用された要害山城。しかし、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で勝利した徳川家康が甲斐を領地にすると、要害山城を廃城にしました。

現在、要害山城跡には「武田信玄公誕生之地」の石碑や「武田不動尊」の石像が立っています。

高遠城(たかとおじょう):長野県伊那市

現在は桜の名所となっている高遠城址公園
現在は桜の名所となっている
高遠城址公園

信濃の台地に築かれた平山城で、別名は「兜山城」。もとは信濃の大名家である高遠家が築いた城でしたが、武田信玄により攻め落とされて、それからは武田家の城となりました。
武田信玄の軍師である「山本勘助」(やまもとかんすけ)により大改修されて、本丸、二の丸、三の丸および複数の曲輪からなる堅牢な城となります。
しかし、織田家の大軍に攻められると、わずか1日で陥落。この戦を最後にして、武田家は歴史から消え去ることになったのです。
江戸時代になると、高遠城は「保科正光」(ほしなまさみつ)など、歴代藩主の居城となり、信濃の政治や経済の中心地となりました。
そして、現在では城のまわりに「高遠城址公園」(たかとおじょうしこうえん)が整備されて、観光客で賑わっています。春や秋になると桜や紅葉に染まって実に華やかです。

松代城(まつしろじょう):長野県長野市

1560年(永禄3年)頃、北信濃の拠点として武田信玄が築きました。別名は海津城
周囲が山に囲まれている上、付近を流れる千曲川が天然の堀として機能するので、高い防衛力を備えていました。

松代城と言えば、武田信玄と上杉謙信が対峙した「川中島の戦い」の舞台になったことで有名です。4回目となる川中島の戦いで、武田信玄率いる武田軍は松代城を前線基地として使用していました。
松代城を見下ろせる山に陣を張った上杉謙信は、城から炊事の煙が大量に上がっていることに着目します。「炊事の煙が大量に上がっているということは、携帯用の食料を作っているということなので、武田軍は明日、攻めてくるに違いない」。そう見抜いた上杉謙信は山を降りて、武田軍に先制攻撃を敢行。そして、かの有名な大将同士の一騎打ちが実現しました。

川中島の戦いのあとも松代城は、前線基地としての役割を果たします。しかし、武田信玄の跡継ぎである武田勝頼の時代に武田家が滅亡すると、城の所有は織田家や上杉家などに変わっていったのです。

現在の松代城は、環境整備工事によって石垣や土塁、掘りなどが復元されたことにより、往時の姿を留めています。

牧之島城(まきのしまじょう):長野県長野市

丸馬出や三日月堀が残る牧之島城跡
丸馬出や三日月堀が残る
牧之島城跡

武田信玄が信濃を押さえるための拠点として活用しました。川に囲まれた高台に立地しているため、天然の要塞と言えるでしょう。
本丸を守る虎口、その回りに巡らせた三日月の堀、虎口に集まった敵兵に火縄銃や弓矢の射撃を喰らわせるための馬出など、城の防衛設備も整っています。この城の防衛力に、武田信玄は信頼を置いたことでしょう。
牧之島城が築城されたのは1566年(永禄9年)。鎌倉時代に築かれた、牧城の敷地内を築城地にしました。武田家滅亡後は、上杉景勝(うえすぎかげかつ)や田丸直昌(たまるなおまさ)といった武将の拠点となりますが、1616年(元和2年)に廃城となります。

そして、現在は堀や土塁などが良好な状態で残っているため、歴史探訪にもってこいの城跡です。

高根城(たかねじょう):静岡県浜松市

城門などが復元された高根城
城門などが復元された
高根城

1414年(応永21年)、信濃の豪族である奥山家によって築かれました。戦国時代になると武田信玄が奥山家を退けて、この城を手中にしたのです。高根城は改修されて、遠江攻めにおける「橋頭堡」(きょうとうほ/河川をはさんでの戦で自軍を援護するために築かれた砦)としての役割を果たします。

武田家の滅亡とともに廃城になりましたが、1993年(平成5年)から城跡で発掘調査が始まると、2001年(平成13年)には城門や櫓、柵などが復元されました。
まるで、時代劇のロケ地のように、往時の雰囲気を漂わせる建物が並んでいるので、非常に散策しがいのある観光スポットとなっています。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 甲冑(鎧兜)に関する基礎知識をご紹介します。

  • 武田信玄

    戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。

  • 戦国の世を生き抜いた武将の合戦戦略について解説します。

  • 現代まで残ってきた武士の風習をご紹介します。

刀剣特集

日本のお城(城郭)に関する様々なお役立ちコンテンツをご紹介します。

刀剣ワールド刀剣ワールド
刀剣ワールドでは、刀剣にまつわる各種コンテンツを公開しております!
刀剣ワールドお出かけ特集刀剣ワールドお出かけ特集
博物館や神社、日本のお城など日本刀(刀剣)や甲冑(鎧兜)に関連する施設の情報をお届けします。
刀剣ワールド 刀剣ゲームアプリ刀剣ワールド 刀剣ゲームアプリ
日本刀をテーマにした簡単操作で楽しく遊べるゲームが盛りだくさん。アプリゲームはすべて無料です。
  • 戦国武将

    歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 戦国武将の合戦戦略

    戦国の世を生き抜いた戦国武将の合戦戦略について解説します。

  • 武将・歴史人の日本刀

    武将・歴史人のエピソードや、関連のある日本刀(刀剣)をご紹介!

  • 合戦・歴史年表

    戦国武将の中でも「戦国三英傑」と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康についてご紹介します。

  • 合戦・歴史年表

    日本刀が大活躍した時代にあった主な合戦をご紹介します。

  • 古戦場紹介

    全国各地の古戦場を地域ごとにご紹介致します。

  • 戦国武将ランキング

    刀剣ワールドで紹介している人気の戦国武将をイラストと合わせて、ランキング形式でご覧頂けます。

  • 名家・著名人の日本刀(刀剣ワールドの所歳刀)

    歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。

お役立ちコンテンツ

日本のお城(城郭)に関する様々なお役立ちコンテンツをご紹介します。

  • 【刀剣ワールド/城】2020年全国の行ってみたい日本の城ランキングTOP20

    日本の城を訪れた皆さんの声を元に刀剣ワールド/城が選ぶ行って良かった日本の城をランキング形式でご紹介!皆さんからの口コミ情報も掲載中です!

  • 城郭カメラマン 岡泰行氏撮影 日本の名城50選

    城郭カメラマン・岡泰行氏によって撮影された魅力あるお城の写真をご覧頂けます。

  • 日本地図からお城検索 全国のお城情報が満載!!

    日本の城、城郭、城跡を日本地図から検索できます。基本情報や口コミ、写真、動画が満載で知りたい情報が見つかります!

  • 日本の城(城郭) アクセスランキング

    全国のランキングはもちろん、都道府県や市区町村ごとのランキングをご紹介!

  • 日本の城(城郭)

    日本全国にある多くの城と、城に縁のある武将をご紹介!

  • 列島横断 城クイズ! クイズに挑戦!!

    歴史と城を旅する気分で列島縦断クイズに挑戦!

特集コンテンツ

日本のお城(城郭)に関する様々なお役立ちコンテンツをご紹介します。

  • 大阪城・大阪歴史博物館・石切劔箭神社で刀剣巡りをしよう!

    古くから政治や文化の要として栄えた大阪にある「大阪城天守閣」「大阪歴史博物館」「石切劔箭神社」をご紹介します。

  • 徳川家康生誕の地 岡崎城へ行こう! In岡崎城(愛知県岡崎市)

    徳川家康生誕の地「岡崎城」や岡崎公園内にある家康ゆかりのスポットをご紹介。

  • 大阪城の桜を見に行こう!(大阪市中央区)

    春と言えばお花見!桜の名所、大阪城で春と歴史を堪能しよう!

  • 武家文化を象徴する日本の城「姫路城」(姫路市)

    「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城を検太郎が訪ねます!

  • 観光・レジャーおでかけ特集

    春夏秋冬、それぞれの季節を感じるおでかけスポットをご紹介!

  • 検太郎のイチオシ施設情報

    歌舞伎パンダ「検太郎」がイチオシ施設の見どころをご紹介!

ページ
トップへ
ページトップへ