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日本の城と戦国武将
水野勝成

日本の城と戦国武将

水野勝成と城

「水野勝成」(みずのかつなり)は、1564年(永禄7年)から1651年(慶安4年)までを生きた戦国武将です。

水野勝成

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「水野勝成」(みずのかつなり)は、1564年(永禄7年)から1651年(慶安4年)までを生きた戦国武将です。「徳川家康」の従兄弟にあたり、徳川譜代の臣として活躍。個性が強すぎるせいか、父との確執をきっかけに家を飛び出す羽目になり、全国を彷徨う流浪生活を送りました。そんな水野勝成を「佐々成政」(さっさなりまさ)や「小西行長」(こにしゆきなが)、「加藤清正」、「立花宗茂」といった名将・勇将達は召し抱え、合戦の場に送り込みます。それは水野勝成が誰よりも強く、一番槍の功を何度も挙げ、並ぶ者のない剛の者だったからです。のちに水野勝成は「日向守」(ひゅうがのかみ:九州の日向国[現在の宮崎県]を管理する官職)となりますが、その強さにちなんで「鬼日向」と呼ばれました。

水野勝成は戦国の世が終わると、「刈谷城」(かりやじょう:愛知県刈谷市)、「郡山城」(こおりやまじょう:奈良県大和郡山市)、「福山城」(ふくやまじょう:広島県福山市)の城主を歴任。藩政でも非常に優れた手腕を発揮し、領民達から信頼されました。ここでは、そんな水野勝成の生涯と、ゆかりの深い城をご紹介します。

水野勝成の生涯

水野勝成は、1564年(永禄7年)三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市)で誕生。父は松平家家臣の「水野忠重」(みずのただしげ)で、幼名は「国松」「藤十郎」、通称は「六左衛門」でした。「松平広忠」(まつだいらひろただ)の正室で徳川家康の母である「於大の方」(おだいのかた:のちの伝通院)の甥にあたり、徳川家康とは従兄弟関係にあります。

徳川家康の家臣として活躍するも勘当され、出奔

1579年(天正7年)、遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)にあった「高天神城」(たかてんじんじょう:静岡県掛川市)を攻める戦いに、徳川軍として父と共に参戦。このとき16歳だったにもかかわらず、敵を討ち取る功を立てました。「織田信長」も若い水野勝成の活躍に感心し、感状(かんじょう:主に軍事面で特別な功労を果たした者を評価・称賛するために出した文書)を与えて褒め称えました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」では、先陣を切って「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ:「豊臣秀吉」の甥)隊の襲撃に成功。また、一番の手柄を挙げるなど、ここでも若武者らしい勢いある働きぶりを見せます。

戦では目覚ましく活躍した水野勝成でしたが、あることで父・水野忠重との間に確執が発生しました。小牧・長久手の戦いの最中、水野勝成が父親の寵臣である「富永半兵衛」(とみながはんべえ)を斬殺したのです。自分のことを悪く言って父親との関係を悪化させたことが斬った理由だとされています。激怒した水野忠重は水野勝成を勘当。ここから、水野勝成の流浪の日々がはじまります。美濃国(現在の岐阜県南部)、尾張国(現在の愛知県西部)、京都を転々とし、寝泊まりは寺の門前。無頼の徒(ぶらいのと:正業に就かず、住所不定の者)と交わることもあれば、町中で喧嘩もし、人を殺めたこともありました。荒れた生活を送っていたところ、豊臣秀吉に拾われてようやくまともな武士の生活に戻ることになります。

ところが、何の巡り合わせか、父の水野忠重までが豊臣秀吉に臣従。同じ釜の飯を食べる間柄となったのです。水野勝成はそんな環境に耐えられず再び浪人となり、九州へと落ちのびました。ただし、豊臣秀吉の怒りに触れる失態を演じて逃げ出したとする説もあり、詳しい経緯は分かっていません。

九州では、「肥後熊本城」(熊本県熊本市)の城主、佐々成政に出仕。その後、小西行長の家臣になります。落ち着いたかと思いきや、九州を離れて「備後国」(現在の広島県東部)の鞆(現在の広島県福山市)に入り、今度は備後国内を転々としました。

父との和解、「関ヶ原の戦い」・「大坂の陣」での活躍

伏見桃山城(伏見城)
伏見桃山城(伏見城)

浪人生活を送っていた水野勝成に再び転機が到来。1598年(慶長3年)3月に「伏見城」(京都市伏見区)で徳川家康に謁見する機会を得て、父・水野忠重とも対面。徳川家康の取り成しで、勘当を解かれます。勘当されてから実に14年の歳月が流れていました。ところが、2年後の1600年(慶長5年)、水野忠重は殺害され、突然の別れが訪れることとなったのです。このとき、天下は徳川家康の東軍と「石田三成」の西軍に別れて激突寸前。大きく動揺している最中で、水野勝成も徳川軍について戦に備えているところでした。悲しむ暇を与えられず、水野勝成は涙に濡れながら天下分け目の「関ヶ原の戦い」に臨んだのです。

関ヶ原の戦いを経て、水野勝成は刈谷藩3万石の藩主となりました。1601年(慶長6年)従五位の下(じゅごいのげ)に叙任。日向守の官位も授かったのです。

徳川軍と豊臣軍が衝突した1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」では、息子である「水野勝俊」(みずのかつとし)と共に参戦。翌1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」でも徳川軍に従軍し、豊臣方の「後藤基次」(ごとうもとつぐ:通称「後藤又兵衛」)の軍勢と激しい戦いを演じました。この戦陣で水野勝成は100近い敵の首を挙げる大活躍を見せています。

水野勝成は大坂の陣の戦功で3万石を加増。大和国郡山6万石の領主となりました。1620年(元和6年)、備後国へ転封(大名の領地を他に移されること)。福山藩(現在の広島県東部、岡山県南西部)10万石の初代藩主となりました。これは「福島正則」の改易により、ひとつの国だった安芸・備後がふたつに分けられたためで、水野勝成に福山を任せることも狙いのひとつです。このとき、当時の将軍「徳川秀忠」が目指していたのは、大名支配を強め、より強固な幕藩体制を築くこと。徳川家康の従兄弟でもあり幕府と縁が深かった水野勝成を、隣接する毛利・浅野といった外様大名への押さえとして使いたい思惑があったのです。また、徳川将軍家の水野勝成に対する信頼の表れでもありました。

水野勝成は瀬戸内海に面した現在の位置に福山城を移し、城下町も整備。さらに産業振興や治水工事、新田開発などに取り組み藩政に尽力したのです。1639年(寛永16年)に隠居し、家督を長男・勝俊に譲ります。その後は剃髪して「宗休」と号し、連歌や和歌をたしなむなど悠々自適な生活を送りました。

1651年(慶安4年)3月逝去。88歳の大往生でした。

水野勝成を最強の武将たらしめる名言

水野勝成は、16歳で挑んだ初陣でいきなり敵の首級を挙げ、その後も合戦では必ずと言っていいほど目立つ働きをし、彼の戦巧者ぶりには織田信長も感心したほどでした。徳川家康が、放浪中の旧臣を関ヶ原の戦いの直前にわざわざ呼び戻したのも、水野勝成が大きな戦力になると考えたからだと言われています。水野勝成があまりにも強かったため、鬼日向の異名まで授かることになったのは有名な話です。

水野勝成の強さは言行にも表れていました。小牧・長久手の戦いで、をしていなかった水野勝成。父・水野忠重から「お前は兜を何に使うつもりか、小便の壺用にか」と罵倒されます。しかし、水野勝成は毅然と反論しました。

「勝負はときの運。私が頭を割られるか、一番首を取るか、見て頂くとしましょう」。こう言い放って馬に飛び乗ると、敵陣にいち早く突入して首を取りました。見事な一番槍、まさに有言実行。「この俺が負けるはずがない」という、己の強さへの絶対的な自信もあったのではないかと思わせるほどの凄みです。

水野勝成の戦エピソード

水野勝成は、戦国時代の合戦から関ヶ原の戦い・大坂の陣まで、数え切れないほどの武功を挙げています。初陣となった高天神城攻めや、小牧・長久手の戦いでの一番槍にとどまらず、九州で仕官したときに参戦した合戦でも一番槍の功を立てました。佐々成政に仕えたときに起きた「肥後一揆」では、「菊池城」(熊本県菊池市)攻めで一番槍となり、包囲された味方を救援。随所で活躍したと言われています。

島津義弘
島津義弘

関ヶ原の戦いでは、徳川家康は水野勝成を「島津義弘」(しまづよしひろ)の対戦相手に任命。徳川家腹心の「本多忠勝」・「井伊直政」から直接、「島津の相手は六左衛門殿(水野勝成の通称)でなければ務まらぬ」と頼まれたという説もあります。水野勝成はその期待に応え、島津軍を撤退に追い込みました。

徳川軍と豊臣軍の戦いである大坂夏の陣では、後藤基次と直接対決した「道明寺の戦い」が有名。徳川軍の「大和方面軍」先鋒大将だった水野勝成は、大和と和泉の国境付近の小松山に陣を構え、後藤基次の軍を迎え撃ちました。その後も大将であるにもかかわらず先頭に立って戦い、ここでも一番槍の功を挙げます。豊臣軍の救援頼みだった後藤軍には最初から不利な戦いであり、水野軍は「本多忠政」(ほんだただまさ)や「松平忠明」(まつだいらただあき)、「伊達政宗」ら徳川軍と共に小松山を包囲。後藤軍を壊滅させたのです。

実は、水野勝成はこの戦いに際して、徳川家康から「今度は大将なのだから、昔みたいに先頭に立って戦ってはならない」と釘を刺されていました。それでも性分なのか、水野勝成は我慢できずに飛び出して一番槍となったのです。枠に収まらない性格と、強さへの絶対的な自信は、父に叱責されたときから変わっていませんでした。

水野勝成に関連する城

水野勝成は、関ヶ原の戦いの後に地元の刈谷城の城主となり、その後、郡山城の城主を経て福山城主となりました。現存しているのは再建された天守ですが、福山城自体は水野勝成による築城。福山市の発展は、水野勝成によってもたらされたと言っても過言ではありません。ここからは、水野勝成にゆかりの深い城について、かかわった順にご紹介します。

高天神城(たかてんじんじょう):静岡県掛川市

高天神城
高天神城

水野勝成は戦国時代期、高天神城を巡って徳川家と武田家が激しく争った「第二次高天神城の戦い」に参陣しました。この戦で徳川軍は勝利を収め、武田方から高天神城の奪還に成功。16歳にして首を挙げる活躍で見事初陣を飾っています。

高天神城の築年は未詳。「今川家」が遠江支配の侵攻拠点に築いたと見られています。高天神城は駿河から遠江への進入口に位置し、「掛川城」(静岡県掛川市)と共に当地の要衝でした。

武田信玄」の侵攻にも負けず死守を貫いた高天神城も、1574年(天正2年)「武田勝頼」の猛攻により、あえなく開城。武田家の手に渡りました。城の奪回に執念を燃やす徳川家康は、城攻略のための砦を築くなど用意周到に攻城作戦を組み立て、兵糧攻めにして落城させ、この戦いののちに廃城。現在は、城跡をうかがい知れる曲輪跡や土塁、掘割の跡を確認できます。

大垣城(おおがきじょう):岐阜県大垣市

大垣城
大垣城

大垣城は関ヶ原の戦いで石田三成が拠点とした城。関ヶ原の戦いでは、西軍が籠る当城を東軍が攻撃し、東軍側に回った水野勝成も活躍しました。

大垣城の築造は室町時代後期頃、土岐一族によると推定されています。現在の天守の原型ができあがったのは、豊臣秀吉の家臣「伊藤祐盛」(いとうすけもり)が築造したときです。豊臣秀吉は、この城を指して「大事のかなめの城」と呼ぶほど重要視。関ヶ原の戦いの中の「大垣城の戦い」では、籠城した西軍の諸将相手に水野勝成が交渉を担いました。城将のひとり「秋月種長」(あきづきたねなが)は、九州放浪時代の旧知の仲。水野勝成の交渉が実り、秋月種長をはじめとする西軍の諸将は東軍に寝返ったのです。

江戸時代は戸田氏などが城主になり、明治維新の廃藩置県により廃城。現在は大垣公園として整備され、戦災で焼失した天守や櫓は戦後復元されました。

刈谷城(かりやじょう):愛知県刈谷市

亀城公園
亀城公園

刈谷城は松平家の家臣・水野氏の居城です。水野勝成は関ヶ原の戦いの褒賞で刈谷城主となりました。1533年(天文2年)、於大の方(徳川家康の母・伝通院)の父である「水野忠政」(みずのただまさ)による築城です。三河最西端の衣浦に面した台地に築かれ、本丸の周囲に堀、その外側に二の丸、その東側に三の丸を配置。水野家は衣浦の水運に目を付け、ここに城を築いたとされています。

水野忠政の息子「水野信元」(みずののぶもと)は、織田信長と徳川家康の同盟締結に功のあった人物。しかし、織田方家臣の讒言(ざんげん:ありもしないことを作り上げ偽り、人を悪く言うこと)にあって切腹となり、その弟・水野忠重が城主となりました。関ヶ原の戦いののち、水野勝成が入城。水野家の転封後は松平家など、譜代大名の居城となりました。明治維新における廃藩置県で廃城。刈谷城のあった場所は現在、亀城公園刈谷球場などになっています。

郡山城(こおりやまじょう):奈良県大和郡山市

郡山城
郡山城

郡山城は大坂の陣を経て6万石を拝領した水野勝成が、1615年(元和元年)に入った城。本拠地である刈谷からの転封でした。

郡山城は、簡素な砦に過ぎなかった城を「筒井順慶」(戦国期の大和国領主・織田信長家臣)が本格的な平城に造り変えた城です。豊臣秀吉の弟である「豊臣秀長」も城主となった歴史があります。関ヶ原の戦い後、徳川家康の計らいで再び筒井家の居城となるも、大坂の陣で失態を演じた「筒井定慶」(つついじょうけい)が切腹したため、代わって水野勝成が城主に収まりました。城郭は荒れ果ていたため、幕府主導で普請が行われ、水野勝成自身も屋敷の普請に携わっています。

松平家や柳沢家など徳川譜代の臣が入城したあと、何度も改修。明治維新で廃城。現在は城址公園として整備されています。

福山城(ふくやまじょう):広島県福山市

福山城
福山城

福山城は備後福山藩主となった水野勝成が築いた城。「一国一城令」(すべての城の破却が命じられた法令)が出された江戸時代において、最後に築城された城郭です。

福島正則の改易により備後福山を治めることになった水野勝成は、当初「神辺城」(かんなべじょう:広島県福山市)に入る予定でした。ところが、この城は手狭で藩政を行うには不適切と判断。瀬戸内海に面して山陽道にも近い当地に城を築きました。この地域が福山と呼ばれるようになったのは、ここに城が築かれたあとのことです。

水野勝成は福山藩主として種々の改革を推し進め、現在の福山市の基礎を築きます。水野家のあとは松平家や阿部家が入城。なお、幕末に黒船襲来で揺れる幕府を支えた「阿部正弘」(あべまさひろ)も福山藩出身です。昭和の戦災で天守が焼けるも戦後に復興し、伏見櫓や筋金御門などが現存しています。

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