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日本の城と戦国武将
真田昌幸

日本の城と戦国武将

真田昌幸と城

「真田昌幸」(さなだまさゆき)は、1547年(天文16年)~1611年(慶長16年)年7月13日までを生きた戦国武将です。

真田昌幸

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「真田昌幸」(さなだまさゆき)は、1547年(天文16年)~1611年(慶長16年)年7月13日までを生きた戦国武将です。
幼いときから名武将である武田信玄に仕えて、その兵法を学びました。成長して信濃の大名となると、会得した兵法を駆使し、徳川家康の軍を2度も破っています。また、「日ノ本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と称えられる戦国武将「真田幸村」(さなだゆきむら)の父としても有名です。
そんな真田昌幸の生涯と、ゆかりのある城についてご紹介します。

真田昌幸の生涯

知略に長けた戦国の名将「真田昌幸」
知略に長けた戦国の
名将「真田昌幸」

1547年(天文16年)真田昌幸は、甲斐を治める武田家の家臣である「真田幸隆」(さなだゆきたか)の3男として生まれました。幼少期から武田家の家臣団に入り、武田信玄を主君と仰いでいます。武田信玄の薫陶(くんとう)を受けて、知略に長けた武将へと成長していった真田昌幸は、武田信玄からは「我が眼」と言われるほど、重宝されました。
真田昌幸の初陣となったのは、武田信玄がライバルである上杉謙信と対峙した「川中島の戦い」(かわなかじまのたたかい)です。これ以降も戦に参加しながら、武田信玄の優れた兵法を学んでいます。
しかし1573年(天正元年)、武田信玄は病により亡くなってしまいました。家督を継いだのは、その4男である「武田勝頼」(たけだかつより)です。武田家を盛り立てるため次々と他国に攻め入った武田勝頼ですが、「長篠の戦い」(ながしののたたかい)で織田信長徳川家康の連合軍に惨敗。この戦で真田昌幸の兄たちが討たれてしまったため、真田昌幸は3男ながら家督を継ぐことになります。

1582年(天正10年)、織田信長と徳川家康の連合軍は、武田家への総攻撃を開始しました。武田家の家臣たちは劣勢だと見ると、次々と連合軍に寝返っていきます。そして、家臣の裏切りにより追い詰められた武田勝頼が自害すると、武田家は滅亡。仕えるべき家を亡くした真田昌幸は、独立する形になったのです。
この頃、真田家の領地がある信濃は、織田信長の支配下にありました。「本能寺の変」により織田信長が没すると、信濃は統治者がいない状態になります。そこで、信濃の有力者たちが話し合いの末に、新しい統治者として選んだのが真田昌幸です。武田家の家臣に過ぎなかった真田昌幸は、数奇な運命をたどり、信濃の大名となりました。
これ以降、真田昌幸は「有力大名に仕えては離反する」を繰り返していきます。信濃を守るためには、時代の流れに応じて主を変えていく必要があったのです。

1585年(天正13年)、徳川家康に仕えていた真田昌幸は、「領地の一部を北条家(関東を治める大名家)に明け渡すように」という理不尽な命令を受けました。
真田昌幸がこの命令を拒否すると、激怒した徳川家康は真田討伐の兵を出したため、真田昌幸は徳川軍を迎え撃つべく、信濃の上田城に籠城します。
徳川軍7,000に対して、城内の真田軍はわずか2,000。この3倍以上の戦力差を、真田昌幸はかつて武田信玄から学んだ兵法によって覆しました。
徳川軍を城下町までおびき寄せると、民をあらかじめ避難させていた城下町に火を放ちます。しかも、城下町の門を閉鎖して、徳川軍が脱出できないようにしたのです。
そして、徳川軍に1,000人以上の死者を出す被害を与えて、真田軍は勝利しています。

その後、徳川家康のもとから離反した真田昌幸は、天下人である豊臣秀吉の家臣となりました。豊臣家へ人質に出した、次男の真田幸村が豊臣秀吉に気に入られたこともあり、真田昌幸は豊臣家と良好な関係を築いています。
しかし1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康はこれに乗じて天下を獲るべく、豊臣家の武将たちを仲間に引き入れていきます。
そんな徳川家康の前に立ちはだかったのが、豊臣秀吉の側近だった「石田三成」(いしだみつなり)です。豊臣家の天下を守るべく、石田三成は徳川家康に対抗するための勢力を作り上げます。
ふたりの対立は全国に飛び火し、戦国時代で最大級の合戦となる「関ヶ原の戦い」に発展。全国の武将が徳川家康の率いる東軍か、石田三成の率いる西軍かに分かれて覇を競いました。
真田昌幸が加勢したのは西軍です。なぜ西軍に加勢したのかには諸説ありますが、徳川家康と上田城での因縁があったからという説もあります。
東軍は、徳川家康が率いる軍とその三男である「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が率いる軍に分かれて、決戦の地である関ヶ原を目指しました。
徳川秀忠の行く手に立ちはだかったのが真田昌幸です。またしても真田昌幸は上田城に籠城し、徳川軍と激突します。

この戦でも、真田昌幸の兵法が真価を発揮しました。徳川軍を本丸までおびき寄せたところで、鉄砲の一斉射撃を浴びせます。徳川秀忠は本丸で苦戦する部隊を助けるために援軍を出したのですが、その援軍は本丸にたどり着けませんでした。なぜなら、真田軍が上田城付近を流れる川のダムを決壊させたため、川が増水し、援軍の行く手を阻んだからです。
このように、真田昌幸の兵法に翻弄された徳川秀忠は、上田城を落とすことができませんでした。そればかりか、上田城での戦で時間を取られたせいで、関ヶ原の戦いの開戦に間に合わなかったのです。
徳川秀忠の軍を上田城に釘付けにして、東軍の戦力を大きく削ぐ。ここまでは真田昌幸の思惑通りでしたが、関ヶ原の戦いで想定外の事態が起きてしまい、わずか半日で西軍が敗退してしまったのです。

関ヶ原の戦いを制して、天下を獲った徳川家康は、真田昌幸とその子である真田幸村を高野山の麓にある九度山へ追放しました。
九度山での生活は経済的には苦しかったものの、真田昌幸は息子と支え合って過ごしています。そして1611年(慶長16年)、65歳で永眠。
その後、豊臣家と徳川家が戦った「大阪の陣」で、真田幸村が徳川家康をあと一歩のところまで追い詰めています。真田昌幸の武将としての魂は、真田幸村へと受け継がれたのでした。

真田昌幸が長男と別れた犬伏の地

関ヶ原古戦場
関ヶ原古戦場

関ヶ原の戦いで東軍につくべきか、西軍につくべきか。当時の戦国武将にとって運命の分岐点とも言える決断だったでしょう。真田昌幸がこの運命の分岐点について、ふたりの息子たちと話し合ったのが下野(今の栃木県)の犬伏という場所です。

1600年(慶長5年)、犬伏での話し合いのなかで、長男である真田信幸(さなだのぶゆき/関ヶ原の戦いのあとは真田信之に改名)と真田幸村の意見が分かれました。
東軍を率いる徳川家康の重臣「本多忠勝」(ほんだただかつ)の娘を妻に持つ真田信幸は、東軍につくことを決断。一方、西軍を率いる石田三成の側近である「大谷吉継」(おおたによしつぐ)の娘を妻に持つ真田幸村は、西軍につくことを決断します。
そんななか、真田昌幸は西軍につくことを宣言しました。東軍に長男がつき、西軍に父と次男がつくことにより、家族内で争うことになった真田家。しかし、これは真田昌幸の計略だったという説もあります。どちらの軍が勝っても家が存続するように、あえて家族内で両方の軍に分かれたというのです。
実際、関ヶ原の戦いのあと、家族内で両軍に分かれていたことが幸運となります。敗れた西軍についていた真田昌幸と真田幸村は、徳川家康から死罪を言いつけられたのですが、真田信幸が助命嘆願してくれたおかげで、死罪を免れることができたのです。

犬伏での真田家の別れは計略だったのでしょうか。もしそうだとしたら、策士として本領発揮した真田昌幸はさすがと言えます。

真田昌幸に関連する城

戦国時代、名将・武田信玄から学んだ兵法により、いくつもの戦を制してきた真田昌幸。上田城に籠城して徳川家康の軍を2度も破っているだけあり、戦において城をどのように利用すれば良いのかを知り尽くしていたことでしょう。
ここでは、真田昌幸がその足跡を残した岩櫃城、名胡桃城、沼田城、上田城、戸石城、名護屋城をご紹介します。
なお、この6つの城は真田昌幸とかかわった年代の古い順に並べました。

岩櫃城(いわびつじょう):群馬県吾妻郡東吾妻町

真田昌幸の拠点のひとつであった岩櫃城は、堀を巡らせた山の頂上にある堅牢な要塞でした。1582年(天正10年)、真田昌幸は主君である武田勝頼に「岩櫃城で籠城すること」を進言しています。武田勝頼が、織田信長と徳川家康による連合軍の攻撃に晒されていたからです。
真田昌幸は岩櫃城の付近に主君が住むのにふさわしい立派な屋敷を、わずか三日間で築いています。しかし、武田勝頼が岩櫃城に来ることはありませんでした。
家臣である「小山田信茂」(おやまだのぶしげ)の進言を受けて、「岩殿城」(いわどのじょう)に向かうことを決断したのです。岩殿城への道中で、武田勝頼は小山田信茂の裏切りにあって、自害することになります。もし、武田勝頼が岩櫃城へ来ていれば、武田家が滅びることはなかったのかもしれません。

現在、岩櫃城の城跡には遺構こそ残っていませんが、山の上から雄大な景色を楽しめる景勝地として人気です。

名胡桃城(なぐるみじょう):群馬県利根郡みなかみ町

名胡桃城跡
名胡桃城跡

北条家の拠点である沼田城攻略の手始めとして、真田昌幸が落としたのが沼田城の支城である名胡桃城です。この城を落としたことにより、真田昌幸は沼田城攻略にも成功しました。

その後の1587年(天正15年)、有名な「名胡桃城事件」が起きています。
時の権力者である豊臣秀吉は大名間での争いを禁じる法令を発布しました。ところが、北条家が法令を無視して、武力行使によって真田家から名胡桃城を奪い返します。
これに豊臣秀吉が激怒したので、豊臣家に仕える諸大名たちが北条家の居城である小田原城を攻めた「小田原攻め」が勃発したというわけです。

ドラマによる「真田ブーム」が起きた2015年(平成27年)、真田ゆかりの地である名胡桃城でも土塁などの一部を復元する整備工事が行なわれました。

沼田城(ぬまたじょう):群馬県沼田市

沼田城跡
沼田城跡

主君である武田勝頼の命により、真田昌幸が攻め落としたのが北条家の拠点であった沼田城です。真田家の所有となったこの城では、真田昌幸の長男である真田信幸が妻の小松姫と暮らしました。

その後1600年(慶長5年)、犬伏の地で話し合った真田昌幸と真田信幸は、親子でありながら、関ヶ原の戦いで東軍と西軍に分かれて戦うことを決断。
真田昌幸は犬伏から本拠地である信濃に戻る途中、孫に会うために沼田城に立ち寄ることにしましたが、城に入ることができませんでした。
小松姫が、義父といえども敵に回った者に城門を開かなかったためです。
甲冑を身に付けてあらわれた小松姫は、勇敢にも真田昌幸を城から追い返しました。

現在、沼田城跡は公園となっており、その付近には小松姫のお墓もあります。

上田城(うえだじょう):長野県上田市

上田城
上田城

1583年(天正11年)、真田昌幸は信濃の地に上田城を築きました。そして、この城に籠城し、2度も徳川軍を破っています。
関ヶ原の戦いのあと、真田昌幸が九度山に追放されると、上田城はその長男である真田信幸に引き継がれました。

現在の上田城で、真田家ゆかりのものとして有名なのが、東側の門付近にある巨岩「真田石」です。この真田石には、信州へ転封(幕府の命令で領地が他の場所に変わること)となった真田信幸が父の形見としてこの巨岩を持っていこうとしたものの、あまりの重さに持っていけなかったという逸話があります。

城跡には櫓が3つも残っているため、昔ながらの城の雰囲気が楽しめると評判です。

戸石城(といしじょう):長野県上田市

上田城の支城のひとつだったのがこの城です。山の尾根に築かれた4つの城のことを総称し、戸石城と呼んでいました。

1600年(慶長5年)に起きた、真田昌幸が徳川軍と戦った「第二次上田城の戦い」で、戸石城を攻めたのが真田信幸です。
戸石城を守っていたのは、その弟である真田幸村であったため、悲劇的な兄弟対決が起きてしまうことが危ぶまれました。しかし、開戦前に真田昌幸が真田幸村に撤退を命じています。父親として、息子たちが争う様子は見たくなかったのでしょう。

現在、戸石城の城跡が残る東太郎山には登山道が整備されているため、登山をしながら土塁や堀といった城の遺構を見物することができます。

名護屋城(なごやじょう):佐賀県唐津市

1592年(天正20年)、豊臣秀吉の計画した朝鮮出兵に協力するため、真田昌幸とふたりの息子は備前(現在の佐賀県)の名護屋城にまで遠征しています。
もちろん真田親子だけではなく、豊臣家に仕えていた諸大名たちも名護屋城に集まっていました。この城に集まった諸大名と彼らの家臣たちの数を合わせると、約20万人にも及んだとされています。真田親子は500人の兵を朝鮮半島に送りましたが、自分たちが渡海することはありませんでした。

現在、名護屋城の跡地とその周囲に築かれた諸大名の屋敷の跡は、国の特別史跡に指定されています。真田親子が利用したという屋敷は5ヵ所も見つかっており、真田家のファンから人気を博しているようです。

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