ご希望の日本の城情報を無料で検索できます。ホームメイト・リサーチTOP

トップページへ戻る

刀剣ワールド/城

日本の城と戦国武将
藤堂高虎

日本の城と戦国武将

藤堂高虎と城

「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、1556年(弘治2年)1月6日~1630年(寛永7年)10月5日に生きた戦国武将です。

藤堂高虎

文字サイズ

「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、1556年(弘治2年)1月6日~1630年(寛永7年)10月5日に生きた戦国武将です。現在の滋賀県に生まれ、津藩の初代藩主となって津の再興に尽力しただけでなく、生涯に亘って多くの城づくりに携わりました。そんな藤堂高虎の生涯と、彼がその生涯でかかわった城を紹介します。

藤堂高虎の生涯

「戦国二大築城名人」藤堂高虎
「戦国二大築城名人」藤堂高虎

藤堂高虎は、近江国藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町在士)で生まれました。藤堂家は貧しい暮らしをしていたのですが、藤堂高虎は大きく育ち、一説によると身長6尺2寸(約190cm)の大男だったと言われています。

そんな藤堂高虎が戦国大名「浅井長政」(あざいながまさ)の家臣として仕え、初陣を果たしたのは1570年(元亀元年)の織田・徳川連合軍と対峙した「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)です。足軽としての参戦でしたが見事に武功を上げます。

さらに、1576年(天正4年)には「羽柴秀長」(はしばひでなが)の家臣となり、その後も中国攻めや「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)、四国攻めや紀州征伐と言った、豊臣秀吉のかかわった、いくつもの合戦に出陣。数々の功績を残し、1万石の大名となりました。

その後、藤堂高虎は粉河(こかわ)2万石の大名となるも、主家断絶で豊臣秀吉の家臣になります。そして、豊臣秀吉に仕える一方で、藤堂高虎は徳川家康との親交を深めていきました。1599年(慶長4年)、徳川家康が藤堂高虎邸に宿泊した日に「石田三成」(いしだみつなり)の急襲を受けるという目に遭いますが、これを藤堂高虎は阻止したのです。

そして、1600年(慶長5年)9月に始まった「関ヶ原の戦い」では東軍として出陣。ここでの功績が認められたことにより伊予(現在の愛媛県)20万石を与えられ、今治に城を築きます。その後、1608年(慶長13年)には「徳川秀忠」(とくがわひでただ)から伊賀、伊勢に加増移封(いほう:国替えのこと)され、22万石の津藩主となりました。さらに、「大坂夏の陣」では多くの兵を失いますが、徳川方の勝利へ寄与した軍功が認められ、1617年(元和3年)には32万3千石となります。32万石あまりの石高は、藤堂高虎亡きあとも引き継がれ、幕末まで変わることはありませんでした。
しかし、そこまで武功を上げた藤堂高虎も晩年には失明し、1630年(寛永7年)10月5日に柳原にある江戸藩邸内で死去したのです。

「7度も主君変えした」藤堂高虎の評価とは?

浅井長政をはじめ幾度も主君を変えた
浅井長政をはじめ幾度も
主君を変えた

主従関係の規律に厳しい儒教的思想が重んじられていた江戸時代。次々と主君を変えた藤堂高虎は不義理者という辛辣な評価を受けました。藤堂高虎ほどの聡明な人物なら、主君を変えることでどういった評価が下されるかは分かっていたことでしょう。それでも、7度も主君を変えざるを得なかった経緯について、説明していきます。

藤堂高虎が最初に仕えたのは、浅井長政です。しかし、初陣の姉川の戦いで戦功を上げるものの、不意のいさかいから同僚を殺害して逃走。主君を変えざるを得なくなりました。このように逃走して行方をくらましてしまうことを「出奔」(しゅっぽん)と言います。

2番目の主君は浅井家の重臣だった「阿閉貞征」(あつじさだゆき)。阿閉貞征は浅井家を裏切って織田信長と手を組むなど、非情な人物でした。それを知った藤堂高虎は、阿閉貞征にわずか1ヵ月ほどで見切りを付けます。

3番目の主君、「磯野員昌」(いそのかずまさ)は、姉川の戦いで本拠地の「佐和山城」(さわやまじょう)にて織田信長軍により降伏に追い込まれ織田信長軍の配下になるも、のちに出奔。藤堂高虎も磯野家を離れざるを得なくなります。
しかし、藤堂高虎は磯野員昌の息子である「磯野行信」(いそのゆきのぶ)を自分の配下に入れ面倒を見るなど、磯野家を離れてからも、仕えた主君の家を存続させ、子孫と良好な関係を築いていました。

4番目の主君は、織田信長の家臣である「津田信澄」(つだのぶすみ)。藤堂高虎は戦功を上げたのに禄(ろく:給与のこと)が加増されなかったことに不満を抱いて、出奔したのです

5番目の主君は豊臣秀吉の弟、羽柴秀長。藤堂高虎は羽柴秀長のことを大変慕っており、羽柴秀長の下で数々の功績を残しています。羽柴秀長の臣下であった時代は、朝廷からも従五位下佐渡守という官職を賜り、厚遇を受けました。

1591年(天正19年)に羽柴秀長が亡くなってからは、その跡継ぎである「豊臣秀保」(とよとみひでやす)を盛り立てるため奮闘するも、豊臣秀保が17歳で早逝して主家が断絶。主君2人を弔うため、藤堂高虎は武士の道を捨てて、出家して高野山に隠棲するほど、忠義を尽くしたのです。
その姿を知った豊臣秀吉が、藤堂高虎の功績を惜しんで還俗(げんぞく:出家した者が元の世俗の人に戻ること)させ、伊予宇和島(現在の愛媛県宇和島市)7万石を与えたことから、豊臣秀吉が藤堂高虎の6番目の主君となりました。豊臣秀吉の臣下として仕えた頃、再度の朝鮮出陣により(羽柴秀長の臣下の時代も出陣のため)、恩賞として1万石が与えられ、藤堂高虎の石高は8万石にまで増えます。

そして豊臣秀吉亡きあと、藤堂高虎が7番目の主君として選んだのは豊臣氏の敵方となった徳川家康。彼はこの最後の主君のために、粉骨砕身して尽くします。
例えば、徳川家康襲撃の企みがあるとの噂を聞きつけたときは、藤堂高虎が自ら徹夜で徳川家康の警護にあたりました。さらに、天下分け目の戦となった関ヶ原の戦いでは、徳川家康のために自分の弟を人質に差し出したり、西軍の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)らの東軍への寝返りを画策したりするなど、多くのエピソードが残されています。

当然、そんな藤堂高虎を快く思わない者も多く、「豊臣恩顧の大名でありながら、豊臣秀吉殿が亡くなるやいなや、徳川家康に尻尾を振るとは何事か」と、とがめられました。それに対して藤堂高虎は「己の立場を明確にできない者ほど、いざというときに頼りにならない」と答えたそうです。

戦国の乱世において、仕えるべき主君を見誤れば家族や家臣もろとも命を奪われてしまいます。そのことを誰よりも分かっていたからこそ、藤堂高虎は人の上に立つのにふさわしい力量と器を持つ主君を探しつづけたのでしょう。
そして、このような経緯を辿っていくと、藤堂高虎は決して「裏切りで主君を変えるようなことはなかった」ことが分かります。
主君と定めた人物には常に忠義を捧げ、天下人である豊臣秀吉や徳川家康にも信頼され、遂に貧しい家の生まれから伊勢、津32万石の大名にまで出世したのです。

戦国時代の築城名人でもあった藤堂高虎

赤木城城郭図
赤木城城郭図

藤堂高虎が出世したもうひとつの理由は、城郭建築の腕前です。「加藤清正」(かとうきよまさ)と並ぶ「戦国二大築城名人」とされており、「黒田如水」(くろだじょすい)を加えて「戦国三大築城名人」と言われることもあります。

藤堂高虎が羽柴秀長配下時代に築いた「赤木城」(あかぎじょう)。高い石垣と堅牢であることが特徴ですが、石垣は4m程度で、規模は決して大きいものではないものの、当時としては最先端技法であった「野面積み」(のづらづみ)という技法を取り入れていました。これは自然の石をそのまま積み上げる技法で、頑丈で排水性が良いことから、「大阪城」でものちに採用されています。

その後、羽柴秀長が亡くなり、豊臣秀吉に召し抱えられた藤堂高虎は、伊予の「板島丸串城」(いたじままるぐしじょう、のちの宇和島城)を与えられ、この城の大改修に取り掛かったのですが、その最中に朝鮮へ出兵しなくてはならなくなり、大改修は中止となりました。
のちに、帰国した藤堂高虎は、板島丸串城の改築を再開させ、朝鮮の城の特徴である総構えを取り入れます。

このように戦場での経験を活かし、かつ最先端の技術を取り入れ、築城の名人として知られるようになったのです。

藤堂高虎に関連する城

築城名人としても知られる藤堂高虎は、多くの城を築城・修築しています。生涯で築城に携わった数は20を超えるとも言われ、藤堂高虎の建築の腕は城だけに限らず、日光東照宮の大造替えにも活かされました。

なぜ、藤堂高虎がこれほど多くの築城や建築を任されることになったのでしょう。それは、藤堂高虎が築城を「戦の要」ととらえ、実戦に強いだけでなく、新しい構造を生み出すことで早く城が完成するようにしたためです。
藤堂高虎が何度も主君変えしたことからも分かるように、藤堂高虎が生きたのは多くの武将がせめぎ合った混沌とした時代。戦国の世において、こうした藤堂高虎の才能は重宝されました。
実際に、藤堂高虎はどのような築城をしていったのか、藤堂高虎が築城した代表的な城とその特徴を見ていきます。なお、以下の7つの城は藤堂高虎とかかわった年代が古い順に並べました。

赤木城(あかぎじょう):三重県熊野市

一揆鎮圧の拠点として築かれた赤城城跡
一揆鎮圧の拠点として
築かれた赤城城跡

赤木川の北岸にある標高約230mの丘陵に築かれた、藤堂高虎が30代の頃に築いた城です。尾根を利用した中世山城の形式を引き継ぎながら、複雑な虎口(こぐち:城の出入り口)の形態、石垣の多用など、近世城郭の手法が採用されているため、中世から近世への移行段階の城と位置付けられています。

当時の熊野北山は、豊臣秀吉による検地への反発から大規模な一揆が頻発していました。豊臣秀吉から紀州を任された羽柴秀長配下の藤堂高虎は、1589年(天正17年)頃に、一揆鎮圧の拠点として、この「赤木城」を築いたのです。一揆を鎮めるためとは言え、交通の要所でもない山深い里に不釣り合いな立派な城を築いたのは、豊臣秀吉が熊野の豊富な森林資源に目を付けており、支配した領地を統治し、豊臣家の威光を示すためだったとも言われています。
1992年(平成4年)からは、13年かけて石垣の積み直しや遊歩道の設置など、復元整備を実施。修復された赤木城跡の主郭からは、美しい棚田や赤木の町が一望できます。

大洲城(おおずじょう):愛媛県大洲市

伊予国守護のために、1331年(元弘元年)、鎌倉時代の終わりに創建されました。200年以上宇都宮氏が居城していましたが、戦国時代末期に「大野直昌」(おおのなおしげ)へ、さらに豊臣秀吉の四国平定によって「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)へと城主が変わっていきます。

藤堂高虎が「大洲城」の城主となったのは、1595年(文禄4年)のこと。小早川隆景が九州に封ぜられたのちに城主となっていた「戸田勝隆」(とだかつたか)の朝鮮出兵中の病死がきっかけでした。藤堂高虎は大洲城を得ると、改修を行ない自身の居城とします。
大洲城周辺には川があったことから、藤堂高虎は天然の堀にして、地形をうまく使った大改修を実施するなど、中世からの城郭を近世城郭へと生まれ変わらせました。
その後藤堂高虎は、関ヶ原の戦いで新たに得た恩賞により、改修した大洲城を養子の「藤堂高吉」(とうどうたかよし)へ譲ります。のちに、城主は藤堂家から脇坂安治へ引継ぐことになりました。

現代に入り幾度もの復元工事などを経て、江戸時代の姿を忠実に再現した天守が復元。解体されていない台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓は、国の重要文化財に指定されています。

宇和島城(うわじまじょう):愛媛県宇和島市

もとは鎌倉時代に造られた板島丸串城という城で、1596年(慶長元年)に藤堂高虎の手によって改築が始まりました。この城の大きな特徴が、不均等の5角形をした外郭(がいかく:城などの周囲にある囲い)です。

特徴的な外郭は上から見れば5角あることが分かりますが、地上から見ると四角形のように見えます。隠密が城の形を見破れないという逸話が残るほど、実に巧妙に作られた城でした。
このように一見すると四角形に見える外郭を藤堂高虎が作ったのは、有事の際に血路を開くためだったと言います。他にも海に面した地形を活かすなど藤堂高虎の築城の手腕が発揮され、そのあとも引き継がれていきました。

しかし、宇和島城築城もつかの間、藤堂高虎はすぐに今治城築城のために去ってしまいます。のちに宇和島城は、仙台伊達家の分家が代々住む城となりました。

今治城(いまばりじょう):愛媛県今治市

藤堂高虎が創始した層塔型の今治城
藤堂高虎が創始した
層塔型の今治城

1602年(慶長7年)に築城。関ヶ原の戦いの戦功により、伊予半国20万石を拝領した藤堂高虎が、瀬戸内海に面した海岸に築いた平城で、豊臣家を慕う西国大名を監視する役割を担っていました。
広大な水堀と反りのない直線的な石垣、脆弱な地盤を安定させるための幅広い犬走り(いぬばしり:石垣の下の道)、侵入者の方向感覚を失わせ、能率的な都市経営を目指した升目状の城下町設計など、最新の技術とアイデアを盛り込んで築かれており、藤堂高虎の代表作とも評されています。

築城当時は、海水を引き入れた三重の堀に囲まれ、海から堀へ直接船で出入りできるなど、海上交通の要所であることの利を最大限に活かした構造になっていました。
さらに本丸には、五重塔に似た構造の、日本初とも言われる「層塔型」の五重天守が築かれます。
これまでは、「安土城」の天守に代表されるような「望楼型」(ぼうろうがた:物見櫓を乗せた上層と下層が別々の構造を持った型)の天守が主流でしたが、藤堂高虎が層塔型を創始。それ以降、規格を統一することで工期を短縮できるという利点があることから、一気に層塔型の五重天守が主流になっていきました。
明治時代に建物のほとんどが取り壊され、内掘と主郭部の石垣を残すのみとなってしまった今治城ですが、主郭は城跡として整備されています。

江戸城(えどじょう):東京都千代田区

天下平定の後、江戸城改修を任された
天下平定の後、
江戸城改修を任された

室町時代「太田道灌」(おおたどうかん)によって築かれ、1590年(天正18年)年に徳川家康が入府し、居城としました。徳川家康が天下平定をしたのち、時の権力者にふさわしい城に改修するため、天下普請(てんかぶしん:江戸幕府が全国の大名に命じた公共工事)が繰り返されますが、本格的な工事が開始されたのは、徳川家康が将軍職を息子の徳川秀忠に譲った1604年(慶長9年)頃と言われています。新しい「江戸城」の縄張りは、築城の名人である藤堂高虎に任されました。

徳川家康は、江戸城を公的には儀式の場、私的には居住空間にして、本丸を広くしようと考えましたが、藤堂高虎は、まだ実戦にも対応できる城にしておくべきであると進言。計画通りに改修したと言われています。徳川家康が天下を取り、征夷大将軍となるも、西には豊臣秀吉亡きあとの豊臣方が控えていたためです。

武家諸法度により江戸城以外の城は増改築や新築が叶わなくなったため、江戸時代以降幾度も増改築された唯一の日本の城となりました。三代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)の時代まで、大規模な増改築があったと言います。工事期間は、30年余りでした。
その後、1968(昭和43)年には、東御苑として、本丸、二の丸、三の丸の一部が一般公開されています。

伊賀上野城(いがうえのじょう):三重県伊賀市

1585年(天正13年)に、近代郭城として「筒井定次」(つついさだつぐ)の手によって築城されました。それから時が過ぎ、1608年(慶長13年)に、藤堂高虎に徳川家康から伊賀10万石を含む22万石の恩賞が与えられ、さらに国替えが行なわれます。

そして、藤堂高虎は豊臣氏との戦に備えるために「伊賀上野城」の改修に取り掛かることになりました。これにより、およそ3倍もの面積に拡大。本丸も拡張され、10の櫓を建設、石垣は30mと高く積み上げられました。こうした藤堂高虎の大改修によって、伊賀上野城は守りの固い屈強な城へと大変身を遂げます。

しかし、伊賀上野城は未完成のまま築城は中断してしまいました。これは、本来の目的であった豊臣氏が滅んだためです。築城途中で暴風雨によって壊れてしまった5重の天守も、昭和に入って三重の天守として復元されるまで、建設が再開されることはありませんでした。

津城(つじょう):三重県津市

織田信長の弟である「織田信包」(おだのぶかね)が1580年(天正8年)に築城した城です。当時、城下町として栄え、低湿地に建てられた小規模な平城でありながらも、川の流れを外堀に入れるなどして、防御の堅い城でした。

1611年(慶長16年)、そんな「津城」へ国替えでやってきたのが藤堂高虎です。やってくるなり、藤堂高虎は石塁をより高くする、三重の櫓を作るなど、大規模な改修を始めました。さらに、藤堂高虎は築城だけにとどまらず、町人のための伊予町の整備、武家屋敷の整備も進めていきます。津城はまさに、藤堂高虎の築城技術が城だけでなく、町づくりにまで及んだ場所と言えるでしょう。
藤堂高虎のあとは、子の「藤堂高次」(とうどうたかつぎ)が津城を継ぎ、さらに城下を発展させ、明治時代に入るまで城下町としての機能を果たしました。
津城は、藤堂高虎とゆかりの深いことから、現在では馬に乗った藤堂高虎公の像が設置され、観光の目玉のひとつになっています。

藤堂高虎がかかわったその他の城

他にも、藤堂高虎の城づくりの真髄がよく分かるのが、「篠山城」(ささやまじょう:兵庫県丹波篠山市)です。篠山城は、関ヶ原の戦いのあとに、徳川氏が豊臣氏包囲の目的で藤堂高虎に築かせた水の上の城。豊臣氏のいる大阪に近く攻められる可能性もあったことから、石垣を高くするだけでなく、幾重もの門を築き、敵が侵入しにくいようにしました。

なかなか侵入できないとなれば、敵兵は遠距離に対応した武器で攻略していくしかありませんが、藤堂高虎はこうした外からの攻撃にも耐えられるよう堀を長くした城も築いています。当時は遠距離といえば弓の時代。弓の飛距離をも超える堀を作ることで、どうやっても攻めにくい城にしたのです。

他にも藤堂高虎は、「膳所城」(ぜぜじょう:滋賀県大津市)や「甘崎城」(あまざきじょう:愛媛県今治市)の築城、「伏見城」(ふしみじょう:京都市伏見区)、「丹波亀山城」(たんばかめやまじょう:京都府亀岡市)の改修に携わるなど、城づくりにおいて多大な信頼を得ていました。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 戦国の世を生き抜いた武将の合戦戦略について解説します。

刀剣特集

日本のお城(城郭)に関する様々なお役立ちコンテンツをご紹介します。

刀剣ワールド刀剣ワールド
刀剣ワールドでは、刀剣にまつわる各種コンテンツを公開しております!
刀剣ワールドお出かけ特集刀剣ワールドお出かけ特集
博物館や神社、日本のお城など日本刀(刀剣)や甲冑(鎧兜)に関連する施設の情報をお届けします。
刀剣ワールド 刀剣ゲームアプリ刀剣ワールド 刀剣ゲームアプリ
日本刀をテーマにした簡単操作で楽しく遊べるゲームが盛りだくさん。アプリゲームはすべて無料です。
  • 戦国武将

    歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 戦国武将の合戦戦略

    戦国の世を生き抜いた戦国武将の合戦戦略について解説します。

  • 武将・歴史人の日本刀

    武将・歴史人のエピソードや、関連のある日本刀(刀剣)をご紹介!

  • 合戦・歴史年表

    戦国武将の中でも「戦国三英傑」と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康についてご紹介します。

  • 合戦・歴史年表

    日本刀が大活躍した時代にあった主な合戦をご紹介します。

  • 古戦場紹介

    全国各地の古戦場を地域ごとにご紹介致します。

  • 戦国武将ランキング

    刀剣ワールドで紹介している人気の戦国武将をイラストと合わせて、ランキング形式でご覧頂けます。

  • 名家・著名人の日本刀(刀剣ワールドの所歳刀)

    歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。

お役立ちコンテンツ

日本のお城(城郭)に関する様々なお役立ちコンテンツをご紹介します。

  • 【刀剣ワールド/城】2020年全国の行ってみたい日本の城ランキングTOP20

    日本の城を訪れた皆さんの声を元に刀剣ワールド/城が選ぶ行って良かった日本の城をランキング形式でご紹介!皆さんからの口コミ情報も掲載中です!

  • 城郭カメラマン 岡泰行氏撮影 日本の名城50選

    城郭カメラマン・岡泰行氏によって撮影された魅力あるお城の写真をご覧頂けます。

  • 日本地図からお城検索 全国のお城情報が満載!!

    日本の城、城郭、城跡を日本地図から検索できます。基本情報や口コミ、写真、動画が満載で知りたい情報が見つかります!

  • 日本の城(城郭) アクセスランキング

    全国のランキングはもちろん、都道府県や市区町村ごとのランキングをご紹介!

  • 日本の城(城郭)

    日本全国にある多くの城と、城に縁のある武将をご紹介!

  • 列島横断 城クイズ! クイズに挑戦!!

    歴史と城を旅する気分で列島縦断クイズに挑戦!

特集コンテンツ

日本のお城(城郭)に関する様々なお役立ちコンテンツをご紹介します。

  • 大阪城・大阪歴史博物館・石切劔箭神社で刀剣巡りをしよう!

    古くから政治や文化の要として栄えた大阪にある「大阪城天守閣」「大阪歴史博物館」「石切劔箭神社」をご紹介します。

  • 徳川家康生誕の地 岡崎城へ行こう! In岡崎城(愛知県岡崎市)

    徳川家康生誕の地「岡崎城」や岡崎公園内にある家康ゆかりのスポットをご紹介。

  • 大阪城の桜を見に行こう!(大阪市中央区)

    春と言えばお花見!桜の名所、大阪城で春と歴史を堪能しよう!

  • 武家文化を象徴する日本の城「姫路城」(姫路市)

    「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城を検太郎が訪ねます!

  • 観光・レジャーおでかけ特集

    春夏秋冬、それぞれの季節を感じるおでかけスポットをご紹介!

  • 検太郎のイチオシ施設情報

    歌舞伎パンダ「検太郎」がイチオシ施設の見どころをご紹介!

ページ
トップへ
ページトップへ