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日本の城と戦国武将
石田三成

日本の城と戦国武将

石田三成と城

「石田三成」(いしだみつなり)は、1560年(永禄3年)から1600年(慶長5年)10月1日までを生きた戦国武将。

石田三成

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「石田三成」(いしだみつなり)は、1560年(永禄3年)から1600年(慶長5年)10月1日までを生きた戦国武将。天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」で西軍を率いた敗将です。堅物で人望がないというマイナスのイメージが強かった石田三成ですが、近年では賢く強い武将だったとして人気を集めています。

石田三成は少年時代から「豊臣秀吉」に仕え、豊臣家の重臣として政治手腕を発揮。豊臣秀吉に初めて出会ったとき、賢さを発揮して応対した「三献茶」のエピソードや、旗印「大一大万大吉」(だいいち、だいまん、だいきち)、「太閤検地」(たいこうけんち)の基準となるものさしの作成など、石田三成の人となりと能力を物語る逸話が数多く残されているのです。また、荒廃していた「佐和山城」(滋賀県彦根市)を壮麗な居城に作り替え、「三成に過ぎたるもの」と言わしめました。ここでは、そんな石田三成の生涯と、ゆかりのある城をご紹介します。

石田三成の生涯

石田三成は、1560年(永禄3年)「近江国」(現在の滋賀県)に誕生。父は石田村の土豪で浅井家に仕える「石田正継」(いしだまさつぐ)です。石田三成の幼名は「佐吉」でした。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

1570年(元亀元年)「小谷城の戦い」が勃発し、浅井家は「織田信長」と「徳川家康」の連合軍に敗れて滅亡。石田家の新しい主君は、織田信長の家臣である豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に替わりました。1574年(天正2年)、石田三成は小姓として仕官。敗者である浅井家の家臣出身であったにもかかわらず、賢く有能な石田三成は出世を遂げ、豊臣秀吉の臣下の中でも頭角を現していくのです。

1582年(天正10年)の「本能寺の変」により織田信長が亡くなると、豊臣秀吉が天下取りへと地位を固めるようになりました。豊臣家の家臣である石田三成は、戦でも実力を発揮。1583年(天正11年)「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)では、敵の柴田軍の偵察行動を指揮し、実戦でも一番(いちばんやり:交戦の口火を切る軍団または個人)を務め、大きな功名を立てました。翌1584年(天正12年)には「小牧・長久手の戦い」にも従軍。また、内政面では近江国蒲生郡の検地奉行を務め上げました。

石田三成は豊臣秀吉の天下統一を支え、上杉家など力のある大名に対する重要な外交交渉や戦の後処理を担当。このことから、事務官としても有能だったことがうかがえます。1585年(天正13年)、豊臣秀吉は従一位関白(じゅいちいかんぱく)に就任。同時に、26歳の石田三成は「従五位下治部少輔」(じゅごいのげじぶのしょうふ)に叙任されました。

1586年(天正14年)には堺奉行を拝命し、同時に上杉家当主である「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)の豊臣秀吉への謁見を斡旋。翌1587年(天正15年)に、豊臣秀吉は九州へと兵を進めます。石田三成は戦の後始末を行い、平定した九州の復興を担当しました。

さらに、豊臣秀吉の邸宅兼城砦である「聚楽第」(じゅらくてい)に「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)を招く行幸への対応や検地の手配など、石田三成に課せられた仕事は山積み。後世まで語られる豊臣秀吉の政策は、石田三成をはじめとする家臣達が実行していたからこそ成り立っていたと言えます。

1590年(天正18年)、佐和山城の城主になった石田三成は「小田原の役(小田原征伐)」に参加。東北地方の大名達との交渉や、戦のあとの仕置きも担当します。そして、1592年(文禄元年)、豊臣秀吉は朝鮮に出兵を開始。もちろん石田三成も従軍し、船奉行筆頭として軍全体の兵糧や輸送の管理を担当した苦労は相当大きかったと推測されます。明との休戦交渉の対応も請け負うなど、石田三成は多忙を極めていました。

石田三成は「すべては豊臣秀吉の天下統一のために」という精神で奮闘。そんな中、大事件が起こります。1595年(文禄4年)、豊臣政権の2代目として当時の関白を務めていた「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)が切腹。権威の継承が済んだあとに、豊臣秀吉に実の息子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が誕生したため、ふたりの関係に溝ができてしまったのです。

豊臣秀次の切腹は自身の意思なのか豊臣秀吉からの命令だったのか、歴史的解釈は分かれていますが、豊臣秀吉はこの事件を身内の恥と考え、同じ一族であるにもかかわらず豊臣秀次の妻子を含む関係者を大量に処断。謀反の疑いをかけられた豊臣秀次に対し、石田三成は本人に経緯を聞く役目を担当し、処断にも立ち会いました。後世に冷酷非情なイメージを伝える出来事ですが、石田三成は豊臣秀次の家臣達を自分の臣下に組み入れ、世話をしています。

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去。遺言により五大老と五奉行が後事を託され、石田三成は五奉行のひとりとして政務を行います。石田三成は朝鮮からの撤退をはじめ大名領の再編成など、豊臣秀吉が残した課題の解決に乗り出しましたが、朝鮮に渡っていた武将たちを中心に、たまった不満の矛先が石田三成に向かってしまったのです。そのため、1599年(慶長4年)に隠居を余儀なくされてしまいました。

しかし、石田三成は隠居しつつも、豊臣家の後釜を狙う徳川家康に反感を持つ大名を集め、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで、西軍として徳川家康と対決。しかし、多くの武将の裏切りにあいます。その後、石田三成は捕らえられ、処刑されました。豊臣家のために力を尽くした知将は、平和な世を見ることなくこの世を去ったのです。

石田三成に過ぎたるものが二つあり

敗戦の将となり、徳川家康との確執から江戸時代では不名誉な評価を受けがちだった石田三成ですが、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」という俗謡が存在。島の左近とは、石田三成の腹心「島左近」(しまさこん)のことです。

島左近
島左近

島左近は1540年(天文9年)生まれの武将で、畠山家や筒井家に仕えます。筒井家の重臣として名高かった島左近は、筒井家を辞したのち、多くの大名から仕官の誘いを受けては固辞しました。しかし、なぜ石田三成に仕官することを決めたのか、その理由として次の逸話が伝わっています。

豊臣秀吉は石田三成に4万石の領地を与えた際、新たに召し抱えた家来・島左近について尋ねました。石田三成は、島左近に2万石を与えて召し抱えたことを打ち明け、豊臣秀吉を驚かせます。島左近は、関ヶ原の戦いまで石田三成の右腕としてあり続けました。様々な伝承や逸話が残っており、存命時から今に至るまで人々の憧れを集める猛将です。

そして、俗謡「三成に過ぎたるもの」のもうひとつは、居城であった「佐和山城」のこと。現在の滋賀県彦根市にある佐和山城が石田三成の居城となったのは、1590年(天正18年)です。石田三成は荒廃していた城郭を改修し、5層の天守、旧中山道の宿場町である鳥居本(とりいもと)に正面玄関をしつらえた近代城郭へと再生しました。しかし、実は改修された城の内部は板張りのままの床で、外側の見た目とは打って変わって倹約家の石田三成らしい質素な造りでした。「過ぎたるもの」とうたわれる立派な城ですが、石田三成は自分の信念を貫いていたのです。

石田三成と関ヶ原の戦い

豊臣秀吉の死後、事後を託された五大老・五奉行制度。しかし、豊臣秀吉というカリスマがいなくなった状況下では、機能していませんでした。朝鮮出兵から日が浅く、過大な兵役を課せられ疲弊していた大名のなかには不満を抱えた者もおり、恩賞をはじめとする政務を仕切る石田三成に不満が募っていました。

そんな動乱の中で迎えた1599年(慶長4年)、五大老のひとりで豊臣家の強い味方であった「前田利家」(まえだとしいえ)が逝去。

これをきっかけに均衡が崩れ、今までの不満が爆発した豊臣家重臣の7人の将軍が石田三成を襲撃します。豊臣家のため一身に力を尽くしてきたにもかかわらず、石田三成は隠居を余儀なくされてしまうのです。

石田三成の臣下であった島左近は、石田三成隠居の無念さをはらすべく、豊臣政権の最高機関である五大老のひとり、徳川家康の暗殺を計画。しかし、徳川方に露見してしまい未遂に終わりました。翌1600年(慶長5年)になると、大きく力を付けていた徳川家康は、謀反の疑いありとして上杉家の討伐を決め、領地である会津に向かって自ら進軍。この上杉討伐をはじめ、野心を隠さず突き進みはじめます。そんな徳川家康のふるまいを3人の奉行が糾弾する事態に陥りました。大老のひとり「毛利輝元」(もうりてるもと)までが大坂にやって来くるという混乱のなか動き出したのが、隠居中の石田三成。親しくしていた大名達にこっそりと声をかけはじめ、奉行に復職したのです。

大阪城
大阪城

石田三成は「大坂城」(大阪市中央区)へ入城。豊臣秀吉の愛息である豊臣秀頼がいた大坂城には、豊臣家に忠誠を誓う勢力が集まりはじめます。石田三成は上杉景勝、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)、「真田昌幸」(さなだまさゆき)などの有力で勇猛な武将達を味方に付け、戦略を練りました。対する徳川家康は、自分に従う旧豊臣家臣の大名達に行動を要求。かつてはともに豊臣秀吉に忠誠を誓った大名達は、徳川軍と豊臣軍、誰がどちらの味方になるのか悩みます。関ヶ原の戦いは大名達の心理戦でもあったのです。

石田三成が想定以上に味方を増やすことができないまま、1600年(慶長5年)9月15日に両陣営が関ヶ原で激突。しかし、関ヶ原の戦いは、わずか6時間で雌雄を決しました。石田三成は信頼できる少ない味方とともに奮戦。再起を誓い落ち延びたものの追っ手に捕まり処刑され、41年の短い人生に幕を閉じました。西軍の総大将ではありませんでしたが苛烈な処罰を受け、憎まれ役として散っていったまっすぐな姿が、後世の人々の胸を打っています。

石田三成に関連する城

石田三成は近江国佐和山の領主。領民に寄り添った細やかな指示を行い、大名として自国の領地を治める腕は一流で、善政を敷いていました。石田三成の後に佐和山城の城主となった「井伊直政」(いいなおまさ)は、領民達が石田三成を慕っている姿を見て、自身が東軍として戦った関ヶ原に関することを秘密にしておくよう家臣に徹底させたほど。ここでは、そんな石田三成がかかわった城について見ていきましょう。

長浜城(ながはまじょう):滋賀県長浜市

長浜城
長浜城

長浜城」は1575年(天正3年)ごろに完成した、豊臣秀吉が初めて築城した城。今浜と呼ばれていた交通の要衝(ようしょう:交通、商業、軍事の点から要となる場所)を長浜と改名し、居城であった「小谷城」(滋賀県長浜市)から家族や家臣を引き連れて移り、1582年(天正10年)まで住んでいました。少年期の石田三成は城下の寺で豊臣秀吉に初めて出会って小姓として出仕。そして長浜城へ連れてこられたのです。豊臣家と運命をともにした長浜城は跡形もなく取り壊され、1606年(慶長11年)、彦根城の築城に利用されました。

館林城(たてばやしじょう):群馬県館林市

館林城
館林城

館林城」の別名は「尾曳城」(おびきじょう)。築城時期や築城者には諸説ありますが、古文書によると1471年(文明3年)には赤井家の居城でした。また、1532年(天文元年)に築城されたという説もあります。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉は小田原の役(小田原征伐)に際し、石田三成に館林城の攻略を命令。館林城は沼を利用した堅牢な城でしたが、2万の軍勢で攻撃しても微動だにしなかったため、石田三成はいかだを使って沼に道を作りました。しかし、翌朝になると道は忽然と消えてしまい、館林城に神がかりな力を感じた石田三成は、武力で制圧することをあきらめたというエピソードが残っています。小田原の役(小田原征伐)ののち関東を治めることになった徳川家康は、東北方面への要所として館林城を重視していました。

忍城(おしじょう):埼玉県行田市

忍城
忍城

忍城」は1478年(文明10年)ごろ、地元の豪族だった成田家が築城した平城です。湿地帯をそのまま利用して建てられています。特徴的なこの地形が、忍城を攻略しにくい城にしていました。

1590年(天正18年)の小田原の役(小田原征伐)にあたり、北条家に属していた成田家の居城である忍城の攻略にあたったのが石田三成です。石田三成は、「石田堤」と呼ばれる長さ約28kmに及ぶ堤を建設。地形を利用して水攻めを行うものの、忍城を落とすことはできません。忍城はそのまま小田原城の落城まで耐え抜きました。このエピソードは映画にもなり、広く知られています。

佐和山城(さわやまじょう):滋賀県彦根市

佐和山城
佐和山城

佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期に「佐々木時綱」(ささきときつな)が設けた城砦が起源。交通の要衝として、当時の実力者から重要視され続けた佐和山城を、豊臣秀吉は石田三成に任せることにしました。1590年(天正18年)のことです。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、佐和山城は徳川方に攻めこまれて落城。石田三成の父・石田正継をはじめ、妻女や家臣達が命を落としました。翌年、井伊家の手に渡り、1606年(慶長11年)に彦根城の建設と共に解体され廃城。これにより、石田三成による改修と善政の名残は跡形もなくなってしまったのです。

大垣城:(おおがきじょう):岐阜県大垣市

大垣城
大垣城

大垣城」は「麋城」(びじょう)、あるいは「巨鹿城」(きょろくじょう)とも呼ばれ、1535年(天文4年)に土岐一族の宮川家によって築城された「西美濃」(現在の岐阜県西部)の要衝。大垣城は珍しい4層の天守を持ち、水堀を幾重にもめぐらせ、櫓の数は10を超える巨大な城郭でした。この広大な敷地を持つ城は、関ヶ原の戦いで石田三成の本拠地となります。関ヶ原の野戦で勝利した徳川軍によって落城した大垣城は、江戸時代もそのままの姿で維持されました。

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