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日本の城と戦国武将
脇坂安治(脇坂安治と城一覧)

日本の城と戦国武将

脇坂安治(脇坂安治と城一覧)/ホームメイト

「脇坂安治」(わきざかやすはる)は、1554年(天文23年)~1626年(寛永3年)8月6日までを生きた戦国武将です。

脇坂安治

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「脇坂安治」(わきざかやすはる)は、1554年(天文23年)から1626年(寛永3年)まで活躍した戦国武将です。「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で功績を挙げた7人の武将「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)のひとりとして知られています。そんな脇坂安治は「浅井長政」(あざいながまさ)に仕えたのち、「明智光秀」、「羽柴秀吉」(のちの「豊臣秀吉」)と主君を変え、「関ヶ原の戦い」では西軍から東軍へと寝返って「徳川家康」に付くなど、上手く立ち回り戦国の世を生き抜きました。また水軍としての活躍を活かして、海に近い立地に城を建築しています。脇坂安治の生涯と、ゆかりのある城について見ていきましょう。

脇坂安治の生涯

脇坂安治は「脇坂安明」(わきざかやすあき)の子として、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の東浅井郡(ひがしあざいぐん:現在の滋賀県長浜市の一部、米原市の一部)に誕生しました。

最初は「小谷城」(おだにじょう:滋賀県長浜市)を居城としていた浅井長政に仕えますが、浅井氏は1573年(天正元年)に「織田信長」との戦いで滅亡したため、その後は明智光秀に仕えます。「本能寺の変」ののちに明智光秀が死去すると、豊臣秀吉の家臣となりました。

脇坂安治は1585年(天正13年)、豊臣家最古参の武将「仙石秀久」(せんごくひでひさ)に代わって「洲本城」(すもとじょう:兵庫県洲本市)に入城。脇坂安治は洲本城の石垣を改修して水軍の本拠地とし、淡路水軍(あわじすいぐん:瀬戸内海の治安維持を任っていた軍)を吸収しました。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉が北条氏に対して「小田原征伐」を起こすと、相模湾の海上を封鎖する作戦で、脇坂安治の水軍が活躍。その後1592年(天正20年)から2度にわたって朝鮮半島へ侵攻した「朝鮮出兵」(文禄の役慶長の役)においても水軍として参戦しました。

1600年(慶長5年)に勃発した「関ヶ原の戦い」では、当初、脇坂安治は「石田三成」率いる西軍の一員として松尾山(まつおやま:岐阜県不破郡関ケ原町)の麓に布陣。しかし、同軍の「小早川秀秋」(こばやかわひであき)が寝返ったことを知ると、同じく松尾山にいた「赤座直保」(あかざなおやす)、「朽木元網」(くつきもとつな)らとともに、「徳川家康」率いる東軍へ寝返ります。以後は徳川家康に仕え、1609年(慶長14年)には伊予国(いよのくに:現在の愛媛県)の「大洲城」(おおずじょう:愛媛県大洲市)へ移封されました。

1614年(慶長19年)からの「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」には出陣せず、1615年(元和元年)に家督を譲って隠居。1626年(寛永3年)に73歳で亡くなりました。

多くの逸話をもつ脇坂安治

明智光秀のもとで脇坂安治が出陣した「黒井城の戦い」(くろいじょうのたたかい)では、「貂の皮」(てんのかわ)と呼ばれる逸話があります。

明智光秀は当時、丹波国(たんばのくに:現在の京都府中部、兵庫県東部)にある「黒井城」(くろいじょう:兵庫県丹波市)の平定に難航していました。当時の黒井城主は、「丹波の赤鬼」と恐れられていた戦国武将「赤井直正」(あかいなおまさ)。脇坂安治は単身で黒井城に乗り込み、赤井直正に投降の説得を試みます。

赤井直正は説得に応じませんでしたが、脇坂安治の勇気に感銘を受けて家宝である貂(てん)の皮を贈りました。現在、その貂の皮は脇坂安治を祀った「龍野神社」(たつのじんじゃ:兵庫県たつの市)に納められています。

また、「本能寺の変」ののちに豊臣軍として参戦した「賤ヶ岳の戦い」では、功名を上げた脇坂安治は3,000石の領地を拝領し、のちに賤ヶ岳の七本槍のひとりとして知られることになりました。

七本槍の残り6人は、「福島正則」(ふくしままさのり)・「加藤清正」(かとうきよまさ)、「加藤嘉明」(かとうよしあきら)・「平野長泰」(ひらのながやす)・「片桐且元」(かたぎりかつもと)・「糟屋武則」(かすやたけのり)で、脇坂安治はその中で最年長者です。

脇坂安治に関連する城

脇坂安治の居城には、洲本城と大洲城が挙げられます。2つの城の歴史や特徴、見どころについて見ていきましょう。

洲本城:兵庫県洲本市

洲本城の模擬天守

洲本城は兵庫県の南に位置する淡路島にあります。水軍の城として築かれており、淡路島を一望できる眺望は絶景です。

脇坂安治は朝鮮出兵中に「倭城」(わじょう:日本軍が朝鮮半島南部の各地に築いた日本式の城)を築いた経験を活かし、「登り石垣」を建設しました。

脇坂安治は洲本城に24年間在城しましたが、大洲城に移封される際には、洲本城の天守を大洲城に移築したという説があります。2つの天守の配置や石垣の大きさが同じであることなどを理由としていますが、真偽は定かではありません。

1928年(昭和3年)に昭和天皇の即位を記念して、日本最古の模擬天守が再建されました。1999年(平成11年)には洲本城が国の史跡に指定されています。

大洲城:愛媛県大洲市

大洲城

大洲城は1331年(元弘元年)頃に築城。築城の名手と言われた「藤堂高虎」(とうどうたかとら)が1595年(文禄4年)から約7年間在城し、改修にかかわっています。

大洲城には築城時、港を意味する「津」を使用した「大津城」という名前が付けられていました。脇坂安治が洲本城から移封する際に、大洲城へ変更されたという説が有力です。

大洲城の大部分の建物は明治時代に取り壊されましたが、2004年(平成16年)に4層4階木造の天守が復元。大洲城天守は、当時の絵図や模型、明治時代に撮られた写真などの資料が数多く残されていたため、国内でも復元の質が高い天守です。「台所櫓」(だいどころやぐら)や「高欄櫓」(こうらんやぐら)など4棟のは解体を免れ、国の重要文化財に指定されています。

大洲城を訪れる際は、「大洲城歓迎はたふり」のタイミングがおすすめです。これはJR四国の観光列車「伊予灘ものがたり」が鉄橋をゆっくり渡るのに合わせ、大洲城の本丸でのぼり旗を振るというイベント。参加料は無料で、毎週土・日・祝日の15:16と16:25頃の2回にわたり開催されます。

なお、のぼり旗に記されている黒字に白丸の「蛇の目」の紋は、1869年(明治2年)の「版籍奉還」(明治維新の際、藩が所有する土地と人民を朝廷へ返還したこと)まで大洲藩(おおずはん:現在の愛媛県大洲市)を治めていた加藤家の家紋です。

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