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日本の城と戦国武将
毛利輝元(毛利輝元と城一覧)

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毛利輝元(毛利輝元と城一覧)/ホームメイト

「毛利輝元」(もうりてるもと)は、1553年(天文22年)1月22日から1625年(寛永2年)4月27日まで生きた戦国大名です。

毛利輝元

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毛利輝元とゆかりの城について、その歴史を紐解いていきましょう。

「毛利輝元」(もうりてるもと)は、1553年(天文22年)1月22日「吉田郡山城」(よしだこおりやまじょう:現在の広島県安芸高田市)にて、名将として名高い「毛利元就」の孫として生まれ、1625年(寛永2年)4月27日まで生きた戦国大名です。豊臣家五大老のひとりであり、毛利輝元の「輝」は、室町幕府第13代将軍「足利義輝」から一字を賜っています。

また、毛利輝元は山陽・山陰8ヵ国112万石を統治した有力大名でありながら、室町幕府最後の将軍「足利義昭」を匿ったために「織田信長」と対立。また、天下分け目の「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」では、戦いに弱腰とも捉えられるような行動をするなど、大きな影響力を持つ大名であるがゆえの危うさや苦悩を抱えていたとされています。

毛利輝元は1589年(天正17年)当時の交通の要衝である太田川(現在の広島県廿日市市)の三角州に、「広島城」(現在の広島県広島市)の築城を開始しました。広島城は、毛利輝元が上洛時に見聞した「聚楽第」(じゅらくてい:京都市上京区)、「豊臣秀吉」の「大坂城」(大阪市中央区)に感化されて築城。今回は、毛利輝元の生涯と、ゆかりの深い城についてご紹介します。

毛利輝元の生涯

毛利輝元は、1553年(天文22年)に「毛利隆元」(もうりたかもと)の嫡男として「安芸国」(現在の広島県西部)の吉田郡山城に誕生。幼名を「幸鶴丸」(こうつるまる)と言います。祖父は、一代で小規模な国人から中国地方の覇者となった毛利元就。母は「内藤興盛」(ないとうおきもり)の娘で、「周防国」(現在の山口県南東部)の戦国大名「大内義隆」(おおうちよしたか)の養女となった「尾崎局」(おざきのつぼね)です。

1563年(永禄6年)、父・毛利隆元が宿敵・尼子氏攻めの最中に急死したため、毛利輝元は11歳で家督を相続。しばらくは幼い毛利輝元に代わり、祖父である毛利元就が政務に携わります。毛利元就が死去するまで、毛利輝元との二頭政治体制が敷かれることとなりました。

小早川隆景
小早川隆景

毛利輝元は、苦労知らずのお坊ちゃん育ちである面があり、機密事項を他人に話してしまうなど、毛利元就を悩ませることもあったとされています。毛利元就の死後は、叔父の「吉川元春」(きっかわもとはる)や「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)が補佐。特に教育係であった小早川隆景からは、家臣の目の届かないところで厳しく指導を受けたという逸話が残されています。

1565年(永禄8年)に13歳で元服。同年4月には毛利家の宿敵であった尼子氏の本拠地である「月山富田城」(がっさんとだじょう)への総攻めで初陣を飾ります。11月には、当主の「尼子義久」(あまごよしひさ)が降伏し、尼子氏との戦いが終結しました。

1576年(天正4年)になると、織田信長と対立し京都を追放された足利義昭が備後国(現在の広島県東部)に逃れてきたため、毛利輝元は鞆(現在の広島県福山市)に受け入れます。これにより毛利家も反織田勢力と見なされました。足利義昭は織田信長討伐を掲げて全国の大名に御内書(ごないしょ:室町幕府の将軍家が発布した文書)を出しましたが、1578年(天正6年)に「上杉謙信」が死去。また、1580年(天正8年)には「石山本願寺」(いしやまほんがんじ)が降伏するなど、織田信長の対立勢力が次々と力を失うなか、毛利家も劣勢に立たされました。

ところが、1582年(天正10年)「本能寺の変」により織田信長が「明智光秀」に討たれて死去。このとき、織田信長臣下の豊臣秀吉が毛利家の勢力圏・中国地方を攻める「中国攻め」が行われていましたが、それも中止となり、毛利家はあやうく危機を逃れたのです。

1583年(天正11年)、毛利輝元は「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で「柴田勝家」に勝利した豊臣秀吉に対し、小早川隆景のすすめにより戦勝祝いを贈るなどして近づきます。そして、毛利元就の9男「毛利秀包」(もうりひでかね)と、吉川元春の3男「吉川広家」(きっかわひろいえ)を人質として差し出し臣従。1587年(天正15年)の九州平定では先鋒を務め、武功を挙げます。

1589年(天正17年)からは広島城の築城を開始。豊臣秀吉が建造した聚楽第大坂城を模した造りであり、毛利輝元を象徴する城となりました。

その後、毛利輝元は、1591年(天正19年)の「中国国分」(ちゅうごくくにわけ:豊臣秀吉によって行われた中国路に対する領土配分)により112万石が加増。1597年(慶長2年)には「徳川家康」「前田利家」「上杉景勝」「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)とともに豊臣家五大老に就任します。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将として大坂城西の丸に入るものの、本戦に出陣することはありませんでした。敗戦後は自ら大坂城を退去。毛利家の保全を図りますが、本戦に参加しなかったことを理由に失敗し、周防国・長門国(現在の山口県北西部)の2ヵ国に押し込まれました。毛利輝元は剃髪し、「幻庵宗瑞」(げんあんそうずい)と称し、家督を長男の「毛利秀就」(もうりひでなり)に譲りますが、形式上であり、引き続き政務を執り行ったと言われています。

1604年(慶長9年)には、「萩城」(はぎじょう:現在の山口県萩市)の築城を開始。内政手腕をいかんなく発揮し、領国の米や五穀、特産品の生産を推奨し、幕末まで続く長州藩の基礎を築きました。その後、1623年(元和9年)に萩の「四本松邸」に隠居。1625年(寛永2年)4月27日、毛利輝元は73歳で生涯を閉じました。

毛利輝元と関ヶ原の戦い

吉川広家
吉川広家

関ヶ原の戦いでは、「石田三成」や毛利家の外交を担っていた臨済宗の僧「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)からの要請により西軍の総大将を引き受け、1600年(慶長5年)7月15日に広島を出立。7月19日には大坂城西の丸に入ります。しかし、毛利輝元は関ヶ原の本戦に参加することなく、一族の「毛利秀元」(もうりひでもと)と吉川広家を向かわせ、自身は大坂城に籠もったままでした。

本戦において、毛利秀元は、兵を動かさない吉川広家に阻まれて戦いに参加することができずに傍観するのみでした。それは、西軍に対して危機意識を持っていた吉川広家が、「黒田長政」や「本多正信」(ほんだまさのぶ)といった徳川方と通じ、秘密裏に交渉をしていたからです。この吉川広家の行為は、西軍敗北の一因だと言われています。

また、毛利輝元が大坂城に籠もった行為は、「安国寺恵瓊の策略に乗せられただけであり、本心は徳川家康と戦う気はなかった」というのが通説。しかし、実は「安国寺恵瓊に責任を押しつけ、毛利家が不利にならないようにした」という説もあります。

敗戦後、毛利輝元は徳川家康の「毛利家の領地は安堵する」という言葉を受け、自ら大坂城から退去。ところが領地安堵の約束は反故にされ、山陽・山陰8ヵ国112万石から周防・長門2ヵ国の36万9千石へ大減封となったのです。毛利家の領地安堵という約束を破り、周防・長門2ヵ国に減らした徳川家康に対して深い憎しみがありました。毛利家で、毎年正月に行われていた挨拶では、家臣が「殿、今年は(徳川を討つのは)いかがか」と尋ねると、毛利輝元は「時期尚早じゃ」と返事をしたという話が残っているほどです。

毛利輝元に関連する城・城郭

日本三大平城にも数えられる広島城や、幕末までの260年間長州藩の拠点であった萩城など、中国地方を代表する城について語る際に毛利輝元の存在は欠かせません。ここでは毛利輝元ゆかりの城を、毛利輝元とかかわった年代の古い順にご紹介します。

吉田郡山城(よしだこおりやまじょう):広島県安芸高田市

吉田郡山城
吉田郡山城

毛利輝元が誕生した吉田郡山城は、吉田盆地が見渡せる「多治比川」(たじひがわ)と「可愛川」(えのかわ)の合流点の北側に位置します。中国地方最大の山城であり、標高390m。本丸を中心として放射状に広がる尾根に無数の郭が築かれているのが特徴です。

築城時期は不明ですが、毛利元就の時代に山全体が城郭化。毛利輝元の時代には、城下の整備や修繕が行われた記録が残っています。1591年(天正19年)に毛利輝元が広島城に移ったのちも維持されていましたが、関ヶ原の戦いの敗北による防長(周防国と長門国)への転封により1600年(慶長5年)に廃城となりました。また、三の丸下通路の石垣跡や山麓の洞春寺跡に毛利元就の墓所が残されています。

月山富田城(がっさんとだじょう):島根県安来市

月山富田城
月山富田城

毛利輝元が初陣を飾ったことでも知られているのが、尼子氏の拠点である月山富田城。塩谷口(しおだにぐち)、菅谷口(すがたにぐち)、御子守口(おこもりぐち)の3方面からしか攻めることができない造りとなっており、1566年(永禄9年)に尼子義久が籠城戦の末に開城するまで、一度も落城したことがない難攻不落の要塞として知られています。

尼子氏の滅亡後は、毛利氏、吉川氏が入城。関ヶ原の戦いのあとに入城した堀尾氏が1611年(慶長16年)に松江城に居住を移すまで、この地域は城下町として栄えました。尼子氏に忠義を貫いた「山中鹿介」(やまなかしかのすけ)の供養塔や銅像、石垣、石畳の古道の一部が現存。非常時に兵士を招集する太鼓が置かれていた「太鼓壇」(たいこのだん)であった場所は、桜の名所として春になると多くの人が訪れます。

広島城(ひろしまじょう):広島県広島市

広島城
広島城

毛利輝元が上洛し豊臣秀吉に謁見した際、聚楽第や大坂城、城下町の繁栄を目の当たりにして、吉田郡山城に代わる新しい城をと築城したのが広島城です。城地が三角州であったことから難工事となり、約10年の歳月をかけて完成。城の設計には、築城の名人である黒田官兵衛もかかわっています。

1599年(慶長4年)に落成しましたが、翌年1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」の敗北により毛利輝元は周防・長門へ転封となったため、広島城での居住は短い期間でした。そののち、「福島正則」「浅野長晟」が城主として入城。250年にわたって浅野氏の統治により広島は発展します。

天守は原爆投下により倒壊しましたが、1958年(昭和33年)に広島復興のシンボルとして外観を復元。築城400年となった1989年(平成元年)には内部が改装され、天守閣内部は歴史博物館として公開されています。松本城長野県松本市)や二条城京都市中京区)とともに日本三大平城のひとつです。

大阪城(おおさかじょう):大阪市中央区

大阪城
大阪城

関ヶ原の戦いにおいて、西軍の総大将である毛利輝元が籠もった大坂城は、1583年(天正11年)に豊臣秀吉によって石山本願寺跡に建造されました。本丸の建造に約1年半、そのあとも豊臣秀吉が存命中の全期間をかけ、城作りと合わせて城下町も整備されています。1615年(元和元年)の「大坂夏の陣」で豊臣家の滅亡とともに天守も焼失してしまいました。

徳川幕府の時代になると、かつての豊臣家の威光を払拭すべく、豊臣時代の城を分厚い盛土で埋め、より高い石垣と幅の広いを持った城として再建。しかし、1665年(寛文5年)に落雷によって再び焼失し、以後は再建されることはありませんでした。

1931年(昭和6年)に市民の寄付により266年を経て天守がよみがえり、5層8階の天守を中心とした大阪城公園として整備されています。

萩城(はぎじょう):山口県萩市

萩城
萩城

周防・長門2ヵ国へ封じられた毛利輝元が築城したのが萩城です。当時は海に孤立した状態だった「指月山」(しづきやま)を取り込んでの築城であり、山と海、2本の川からなる天然の要塞として完成。広島城と同じく三角州にある城であるため、広島城築城で培われた技術が活かされたとされています。1863年(文久3年)に13代藩主「毛利敬親」(もうりよしちか)が山口に藩庁を移すまで、長州藩の政治の中心として栄えました。

1873年(明治6年)に明治政府により払い下げが命じられ、門4棟、矢倉14棟、武具庫3棟が解体。現在は指月公園として設備され、石垣や堀などが当時のまま残されています。また、園内にある純白の花びらを持つ桜・ミドリヨシノは、日本では萩のみで見ることができる大変貴重な桜です。

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