<解説>
関ヶ原の戦いのあと、徳川家康に所領を与えられた島津家の居城です。77万石の大大名(10万石以上が大大名)の城にしては質素で、北に本丸、南に二ノ丸が配置されているのみ。堀も本丸部分にしかない単純な構造です。
一方、本丸の南東の真ん中には石橋がかかり、簡素な造りですが有事に備えて本丸の御門枡形虎口(城郭における出入り口)が整えられていました。幕末には薩英戦争、明治には西南戦争の舞台となるなど、激動の時代を見守ってきましたが、明治中期に櫓門(やぐらもん)と多門櫓(たもんやぐら)、隅櫓(すみやぐら)、御殿などすべて火災で焼失。近世に切込接(きりこみはぎ)で積まれた石垣は、現在も美しいまま残っています。石垣の東北の隅が凹んでいるのは、鬼門除けの意味があるようです。
「鹿児島城の背後にある城山を籠城のための詰城(つめのしろ)としたようですが、これは甲斐国守護だった武田氏の居館「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」に近い構えと言われています。この詰城の城山は西南戦争最後の舞台で、西郷隆盛が立てこもった地。城下にある西郷隆盛の私学校跡地の石垣には、そのときの弾痕が数多く残され、激しい銃撃戦を物語っています。国の史跡として指定されました。