日本の城

目指せ!天下統一!列島縦断「城」クイズ!

第28問 次のうち、「千人殺し」と呼ばれる石垣がある城はどれ?

正解 C.延岡城

<解説>

1603(慶長8)年に、豊臣秀吉による九州平定(羽柴秀吉と島津氏の軍との戦い)で功績を挙げた高橋元種(たかはし もとたね)が完成させた城です。当初はこの地域が「県(あがた)」や「吾田(あがた)」と呼ばれていたことから「縣城(あがたじょう)」と名付けられました。

元種が罪人をかくまったという理由で幕府から領地を没収されると、次に入城した有馬氏の時代に城名を「延岡城」と改名。城と城下町を拡大しながら整備しました。そのとき、天守台用に三階櫓が作られましたが、1683(天和3)年に消失してからは再建されなかったようです。

その後、有馬・三浦・牧野・内藤氏へと城主が変わって明治維新を迎えました。延岡城の最大の見どころは、何と言っても二ノ丸跡から見上げる「千人殺し」の石垣。一度に1,000人の敵兵を殺せる仕掛けになっていると言い伝えられています。

長い年月を経ても揺るぎない屈強な石垣

「千人殺し」として名を馳せた石垣は高さ22メートルもあり、熊本城や福岡城に継ぐ高さを誇ります。石垣の形も一風変わっていて、下の端がS字型に近いカーブを描いた野良積(のらづみ)で、石垣の一部を外すと石垣が崩れ落ち、1,000人の兵をまたたく間に殺すことができるという言い伝えから、こう呼ばれるようになりました。

しかし、実際には石垣を崩せば城を守る側も不利になるので、伝説に過ぎないとされています。崩れる石垣と言いながらも、長い年月を経て崩れた形跡はなく、400年以上風雪に耐えてもなお、隙間さえありません。

1993(平成5)年に発掘調査や絵図をもとに北大手門が復元され、その周辺の石垣には数々の刻印が発見されました。天守台には御太鼓台が設けられていましたが、1877(明治10)年の西南戦争で官軍に焼かれてしまい、鐘だけが残ったそうです。この鐘の様子を歌人である若山牧水(わかやま ぼくすい)が「なつかしき城山の鐘鳴りいでぬ をさなかりし日 聞きしごとくに」と読んだことから、歌碑を設置。現在も鐘つき堂があり、延岡市民に時刻を告げ続けています。

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