日本の城

目指せ!天下統一!列島縦断「城」クイズ!

第27問 次のうち、豊臣秀吉が朝鮮出兵の本営として築いた城はどれ?

正解 A.肥前名護屋城

<解説>

豊臣秀吉が朝鮮出兵の本営として、1591(天正19)年に本格的な築城を開始しました。それと平行して一帯の丘陵地に諸候の陣城が百数十余りも築かれ、人口も10万人を超える程の一大都市になったと言います。

石垣は九州の大名たちの割普請(分担して行なうこと)によって半年足らずで築かれ、1598(慶長3)年の末に出兵が終わると、これらの材料は唐津城に転用されました。石垣がところどころで積み方や石材加工に差があるのは、短い工期だった上、高石垣を初めて築いた九州の旧族大名の未熟さに起因しているのかもしれません。

とは言え、黒田氏・加藤氏ら豊臣大名の指導のもと、短期間でこれだけ壮大な普請をやり遂げたことに豊臣政権の強さをうかがい知ることができます。この経験が関ヶ原の戦い以降、西国で石垣造りの近世城郭が数多く築城されるきっかけになりました。

戦闘色むき出しの縄張り技術

織田信長が宿願としていた大陸進出の野望を受け継いだ豊臣秀吉は、侵攻軍と予備軍の陣営地として肥前名護屋城を築城しました。縄張りの設計を黒田孝高(くろだ よしたか)に任せ、出撃性を重視した外枡形虎口(城郭における出入り口)が採用されています。このように戦闘色をむき出しにした縄張り技術がかいま見られる一方、山里丸(やまざとまる)や金箔を施した瓦などを用いた御殿建築が共存し、豊臣秀吉の栄華を象徴しています。

朝鮮に出兵した諸候に指示を出しつつも、名護屋城に在城の際は、山里丸に築いた茶室で茶会を楽しんだり、仮装大会を催したりしていたようです。朝鮮から撤退してからは寺沢広高(てらさわ ひろたか)が入城し、関ヶ原の戦いで豊臣家が権力を失ってからは唐津城の築城に、この名護屋城の材料を使用したと言われています。

現在、石垣のところどころにV字形に崩落しているところが見受けられますが、これは城が機能しないようにする「城割(しろわり)」だと言われています。「岸田家文書」によると島原の乱直後に巡検した江戸幕府老中の松平信綱(まつだいら のぶつな)が、一揆の巣となることを懸念して崩させたとあり、今でもその跡を見ることができます。

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