<解説>
正解はAの「黒田官兵衛(くろだ かんべえ)」、のちの黒田如水(じょすい)です
中津城は1588(天正16)年に築城され、黒田家、細川家、小笠原家、奥平家の居城として明治まで続きます。
黒田家が福岡に転封になったあと、細川忠興(ほそかわ ただおき)が入城し、約20年近くを費やして増改築を行ないました。
城は、中津川河口の周防灘に面しており、堀には海水が引き込まれ、今治城・高松城と並んで「日本三大水城」のひとつに数えられています。
約23,000坪(東京ドーム1.6個分)の面積を持ち、地形が北より南方に延びる扇状地となっているため、別名「扇城」とも言われています。本丸石垣、内堀は当時のまま残っていますが、天守閣を持っていなかったことから、現在は萩城を摸して復元されたコンクリート製の天守が建っています。
また、城の鬼門である北東には闇無浜神社(くらなしはまじんじゃ)が建てられ、冬至は、八幡宮の総本山である宇佐神宮の方角から朝日が昇り、夕日は日本三大修験道の霊場である英彦山の方角に沈むように設計されており、風水的にも考えられた立地になっていたようです。

秀吉の軍師として知略で制する印象が強い官兵衛ですが、九州征伐では、謀略等により多くの地元豪族や配下を暗殺・殺害することもありました。
中でも中津城においては、有名な悲劇が残っています。
1587年、秀吉により豊前国中津から伊予国への転封を命じられた城井鎮房(きい しげふさ)がこれを拒絶し、新しく大名として入封して来た黒田官兵衛と対立するようになります。
そして豊前国人一揆が起きますが、鎮房の娘である鶴姫を官兵衛の息子・長政に嫁がせることで和睦が成立しました。
しかし、1588(天正16)年、長政と鶴姫の婚礼の宴に鎮房を中津城へ招待しましたが、それは表向きの話で、だまし討ちにしました。
近くの寺に控えていた鎮房の家臣達も皆殺しにされ、このとき赤く染まった寺の壁は、何度塗り替えても血の色が出るので、壁ごと朱に塗り替えられたと伝えられています。また、鶴姫や侍女達も磔にされました。
この事件のあと、官兵衛は弔うために、中津城には、城井一族を祀った「城井神社(きいじんじゃ)」と、寺で命を落とした家臣を祀った「扇城神社(せんじょうじんじゃ)」、中津城の鬼門には「闇無浜神社(くらなしはまじんじゃ)」を建立し、今でも参拝することができます。