<解説>
正解はAの高知城(こうちじょう)です。
日本国内に残る木造の12天守のひとつであり、現在でもその姿を残しています。
山内一豊(やまうち かつとよ)が土佐に足を踏み入れたときには浦戸城がありましたが、城の周辺が手狭だったため、浦戸湾に面した大高坂山に本丸を造成し、湿地帯だった麓に城下町をつくりました。
地盤を改善するために、鏡川や江の口川など周辺河川の治水工事を行ない、二代目藩主・忠義のときに、水害がないようにと「高智山城」と改名されたのち、現在の「高知城」となり、地名も「高知」と称されるようになりました。
天守は4重、内部は3層6階建ての望楼型天守で、一豊が過去に城主を務めた、遠州国(静岡県掛川市)にある掛川城(かけがわじょう)を模して造ったと言われています。
天守閣を始め、城のほとんどは1727(享保12)年の大火によって焼失しましたが、1749(寛延2)年に創建時の天守が忠実に再建され、事実上築城時の様子を知る価値ある物となっています。また、維新後の廃城令や、第二次世界大戦による空襲も逃れ、天守など15棟が国の重要文化財に指定されています。

山内一豊の妻と言えば、内助の功で有名な千代。
当時、主君であった織田信長の馬揃え(騎馬を集めてその優越を競いあう武家の行事)の際に、父親から嫁入りのときに渡されたお金を渡して一豊に名馬を購入させ、その馬が信長の目にとまり、一豊の出世のきっかけとなった話はあまりにも有名です。
最終的に一豊を土佐一国一城の主にしたのも千代の功ではないかという話があります。
それは関ヶ原の合戦前夜のことです。
大坂城の石田三成は会津征伐に参戦していた大名の妻子を人質に取っており、千代もその中の一人でした。大阪城から夫宛に送られてきた書状を文箱に入れて一豊に送りますが、このとき、自分が知りうる大阪城の様子などを書き記し、使者の笠の緒によりこみました(「笠の緒文」として知られています)。
一豊は千代の手紙を読んだあと、敵方からの書状を未開封のまま家康に渡しました。
家康は敵方の様子を知ることができたことと、何よりも「徳川に忠誠を尽くすように」と促す手紙を読んで感動したと言われています。
こうして家康の信頼を得た一豊は、関ヶ原の合戦後、一国を拝領することになりました。
ところで、一豊と千代の間には一人娘がいましたが、大地震でなくし、それ以降子供に恵まれませんでした。
孤児を育てていた時期もあり、跡目にすることを考えていましたが『実子ではない』ことは周知の事実で、家臣の忠誠を保てないなどの理由から、育て子が10歳のときに京都・妙心寺に入れます。
そして一豊の弟・康豊(やすとよ)の嫡男忠義(ただよし)を養子に迎え、山内家の後継者としました。
1605(慶長10)年、一豊がこの世を去ると、千代は見性院(けんしょういん)と名乗り、忠義の後見役として、かつての育て子を入れた妙心寺近くに居を構えました。
千代は隠居後も忠義に「徳川への忠誠を忘れないように」と諭し、高台院(秀吉の正室)には土佐の山茶花を送るなど、豊臣と徳川両家にこまめに働きかけ、土佐山内家を陰で支えました。