日本の城

目指せ!天下統一!列島縦断「城」クイズ!

第18問 和歌山城に復元された、藩主とお付きの者だけが二の丸と西の丸を行き来できる廊下の呼称は、次のうちどれ?

正解 A.御橋廊下

<解説>

答えはAの「御橋廊下(おはしろうか)」です。
御橋廊下は、徳川御三家のひとつである紀伊徳川家(きいとくがわけ)が居城としていた和歌山城にあり、藩主とお付きの者だけが通ることのできる特別な渡り廊下です。
この廊下は、藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するためにかけられ、藩主の姿が見えないように、屋根や壁を設けるなど工夫されています。
また、およそ11度の傾斜になっているため、滑り止めの段差が付けられています。
御橋廊下と呼ばれる物は、他の城にもありますが、和歌山城のように、傾斜している木造の渡り廊下は全国的にも珍しい物だと言えます。

現在、無料開放されている廊下は、1999(平成11)年よりの発掘調査に基づき、2006(平成18)年に木造で復元された物で、長さは約27メートル、幅は約3メートルあります。

御橋廊下
和歌山城の「御橋廊下」

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戦国~江戸時代、常に権力と密接に関係していた『和歌山城』

和歌山城は、江戸時代、徳川御三家のひとつである紀伊徳川家の居城になった城ですが、戦国時代を通じて、常に権力と密接に関係していた城でもあります。
1585(天正13)年、紀州(現在の和歌山県・三重県南部)を制圧した豊臣秀吉が弟の秀長(ひでなが)に命じて築城させました。
この地に築城した理由は、寺社勢力や惣国一揆といった反対勢力が残っており、根来(ねごろ)衆や雑賀(さいか)衆が持つ鉄砲技術がそれらと結びつくことを恐れてのことだと言われています。
築城当初は、秀長の家臣、桑山重晴(くわやま しげはる)を城代として治めさせました。
1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで東軍に参戦し、功績を上げた浅野幸長(あさの よしなが)が城主となりました。
1619(元和5)年には、徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)が、紀州55万5千石をもって城主となり、徳川御三家のひとつとして、代々引き継がれていくことになりました。
頼宣は徳川本家の補佐ともいうべき立場で、静岡県にある国宝・久能山東照宮の建立の総奉行となって手腕を発揮するなど、幕府にも貢献しました。
しかし、3代将軍・徳川家光(いえみつ)の時代、1651(慶安4)年に起きた「慶安の変(別名・由井正雪の乱)」において首謀者であるの由井正雪(ゆい しょうせつ)の遺品から頼宣の判を押した書状が見つかったため、謀反の疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国することができませんでした。
その後、頼宣は疑いが晴れ、無事帰国しましたが、すでに進められていた和歌山城の改修は、中止せざるを得ませんでした。
しかし、この和歌山城から、徳川吉宗(とくがわ よしむね)が8代将軍に、徳川家茂(とくがわ いえもち)が14代将軍に輩出されるなど、幕府と密接にかかわり続けてきたのです。

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