<解説>
正解はCの長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)です。
名古屋城の譜代は、彼が死去してから約10年後の1610(慶長15)年に始まりました。
1600(慶長5)年、関ヶ原の合戦は徳川家康の勝利に終わりましたが、まだ完全に徳川時代の到来とは言い切れませんでした。
大阪には豊臣秀頼(ひでより)という秀吉の嫡男がおり、もし秀頼のもとに反徳川の大名が結集すれば、再び戦乱の世に戻ってしまう可能性があったからです。
そこで2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)は、大阪城の周囲にある城の軍備を整え、大阪と江戸を結ぶ東海道の防衛線として、尾張国(現在の愛知県)の守備を固めました。
そのひとつが名古屋城普請だったのです。
秀忠は名古屋城築城にあたり、加藤清正(かとう きよまさ)や福島正則(ふくしま まさのり)など、豊臣家と縁の深い武将を含む西国の20大名に普請(土木工事)の助役を命じ、彼らに普請の資金を出させ、軍備を整える財力を与えないようにしたと言われています。
その後、名古屋城は大きな戦乱に巻き込まれることもなく、明治以降も建物のほとんどが残っていましたが、太平洋戦争での空襲で消失してしまいました。
現在の天守閣は、1957(昭和32)年、名古屋市制70周年記念事業として復元されたものです。

およそ2年にわたる名古屋での出張工事は、経済的に大名たちを苦しめました。
「家康だったらまだしも、なぜ息子の城である名古屋城の工事に駆り出されなければならないのか」という不満の声もあったと伝わっています。
築城にあたって大名たちは持ち場を分担し、石積みや堀の掘削など、築城技術を競いながら行なっていました。そのため、無用なトラブルが起きないよう現場での揉め事は厳しく罰せられたと言われています。
また、苦労して運んだ石を他の藩が間違えて持って行かないよう、主である大名の名を石に刻印したと伝えられています。
それは現在の名古屋城の石垣の中にもたくさん残されています。
その石垣の建築には高度な技術が必要だったため、安土城など、多くの天下普請に携わっていた穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が、名古屋城築城に参加したと言われています。
さらに、石垣の石は、良質なものを使うため、遥か遠く三河湾に浮かぶ篠島(しのしま)や、小牧市から運んできたと言われています。実際に、篠島には加藤清正が運び残した石が「清正の枕石」として今でも残っています。