<解説>
佐倉城は、同じく下総にある本佐倉城主の千葉氏が、北条氏の命で鹿島台に築城したのが始まりと言われています。そのため、当初は「鹿島城」と呼ばれていました。1590(天正18)年に北条氏と共に千葉氏が滅ぶと、この地は徳川家康の支配下に。
1610(慶長15)年、家康は幕府創設に尽力した土井利勝に(どい としかつ)にこの地を与え、ここから本格的な築城が着工しました。利勝は6年間の月日を費やし、1616(元和2)年にようやく完成。1633(寛永10)年に土井氏が転封になると、譜代大名が次々と入城しましたが、佐倉城主は幕府の重臣だった者が多かったようです。中でも1746(延享3)年に入城した堀田氏は、幕末に2回老中をつとめた堀田正睦(ほった まさよし)らを輩出しました。正睦は外国との通商条約において活躍した人物として知られています。
鹿島川と高崎川を外堀とした佐倉城は、関東を代表する土造りの城郭です。当時のまま残る深い空堀と、山と見間違える程の土塁は圧巻。石垣は一切なく、本丸周辺は空堀、土塁の下は水堀が巡らせてあります。曲輪の形はいびつで、地形を活かした関東独特の築城技術を駆使。
また、この地方には珍しく、地上三階地下一階の層塔型天守が存在していました。関東では正式な天守は3城のみ。歴史的に見ても大変貴重な存在です。天守の他に、江戸城から移築した二重の銅櫓もありました。家康・秀忠・家光の三代に仕えた土井利勝への優遇がうかがえます。現在は、三の丸北側の巨大な角馬出(かくうまだし)が復元されており、土造りの角馬出としては全国唯一の復元例です。