<解説>
高山右近は、1552(天文21)年に摂津国(現在の大阪府豊能郡)で生まれ、父の影響を受けて12歳でキリスト教の洗礼を受けました。高槻城(たかつきじょう)の城主になってからは、織田信長に何かと翻弄されましたが、1582(天正10)年に本能寺の変で信長が死亡すると、豊臣(羽柴)秀吉の傘下へ。
以降、様々な戦いに参戦して秀吉から信頼された右近ですが、秀吉がキリスト教と南蛮貿易を禁じる「バテレン追放令」を発すると、信仰を続けることと引き換えに、領地と財産を破棄。地方を転々としたあと、加賀国金沢城主の前田利家(まえだ としいえ)に招かれ、そこで暮らすことになりました。
右近は畿内で培った先進の築城法を金沢城の改修に活かし、高い評価を受けます。1609(慶長14)年には利家の嫡男・利長(としなが)の隠居城である富山城が炎上したため、新しく築く高岡城の縄張りを任されました。
高岡城の曲輪は、本丸・二の丸・三の丸・明き丸・鍛冶丸の5つからなり、虎口や曲輪の配置は富山城や、豊臣秀吉が政庁と邸宅をかねて建てた「聚楽第(じゅらくてい)」を手本にしたと言われています。本丸の三方を二重に取り巻く水堀が特長で、今も当時のまま残っています。本丸の西側のみ一重の水堀ですが、これは本丸の背面に沼地が広がり、それを防御に活かしたからだと伝えられています。
極めて無駄のない築城方法は、右近が考え出した技巧的な縄張りによるものだと言えるでしょう。そののち右近は、徳川家康のキリシタン国外追放令を受け、フィリピンのマニラへ渡航。大歓迎を受けましたが、船旅の疲れなどが重なり、享年64歳で息を引き取りました。