<解説>
1332(元弘2)年に高取の豪族、越智氏が築城しました。標高約583メートルの高取山山頂に築かれた典型的な山城です。城内の面積は約1万平方キロメートル、城郭全体の面積は約6万平方キロメートルにも及び、壮大なスケールを誇ります。
織田信長の命令で一時は廃城となりましたが、1585(天正13)年に豊臣秀吉が大和国の国主になると、大和郡山城の支城(しじょう:本城を補助するために配置された城)として復活。家臣の脇坂安治(わきざか やすはる)や本多利久(ほんだ としひさ)が入城し、石塁を築き、土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を築くなど、山城に平城の技術を調和させ、防御性と美観をかね備えた城として生まれ変わりました。
本多氏が絶えたあと、1640(寛永17)年に植村家政(うえむら いえまさ)が入城し、14代にわたって居城として機能。明治になって廃城令が発令されるまで、山麓の城下町まで続いた山城は日本で唯一の例で、備中松山城と岩村城と共に、日本三大山城にも数えられています。
高石垣の上には、三重の天守と小天守がそびえ立ち、27棟の櫓と33棟の門を備えていました。天守台の高石垣は打込接(うちこみはぎ)、隅部は算木積(さんぎづみ)で、反りのない直線美が織豊期(しょくほうき:織田信長と豊臣秀吉の時代)らしさを物語っています。本丸下段から12メートル程せり上がった石垣の上、本丸上段の北西隅に方形の壇があり、その上に三重の天守が建ち、明治までその姿をとどめていました。
標高の高い山に築かれたため、修理にはかなりの労力と時間を費やしたようです。通常、修理の際には幕府へ報告して許可を得ることが必要でしたが、あまりに頻度が高いことから、特例で申請不要の工事許可が下りたとか。現在残されている石垣の大半も崩れかかっています。