日本の城

目指せ!天下統一!列島縦断「城」クイズ!

第31問 次のうち、幕府に無断で築いて長門国の新府庁にした城はどれ?

正解 A.山口城

<解説>

周防国(現在の山口県東南部)・長門国(現在の山口県西部)を本拠としていた戦国大名の大内氏が築城した高嶺城(こうのみねじょう)跡に、長州藩主の13代・毛利敬親(もうり たかちか)が居城として築きました。

関ヶ原の合戦以降、毛利氏の居城は萩城でしたが、幕末に入った1864(元治元)年、有事に備えて瀬戸内海と下関方面へ指揮が取りやすいこの地に城を移転。天守のない平城ですが、高嶺城の城址を詰城としていたようです。

しかし、同じ年に起きた第一次長州征討で、幕府側が兵を退かせる条件として山口城の破却(はきゃく:城を壊すこと)が提示されました。これを受けて長州藩は城の一部を破却して一旦は萩城へ戻りましたが、1865(慶応元)年、再び山口城へ移住しています。同じ年に起きた第二次長州征討では、政事と軍事の拠点として機能。大政奉還後は藩庁になり、廃藩置県後は場内に山口県庁が置かれましたが。1873(明治6)年の廃城令によって城の歴史は幕を閉じました。

幕末の動乱期に世を動かした長州の拠点

現在も水堀の一部と表門である薬医門が現存しています。切妻造、本瓦葺きで威風堂々としたこの門を、幕末の動乱期に桂小五郎(かつら こごろう)や高杉晋作(たかすぎ しんさく)達は何度も通ったのでしょう。この門は廃藩置県までは藩庁の門、その後は県庁の正門、1916(大正5)年に県庁舎などが建てられた際は県庁の西門になりました。

1987(昭和62)年に旧山口藩庁門として県指定の有形文化財に指定され、現在の山口県庁の中央門と正門の間に残されています。大正時代に建てられた旧山口県庁舎と旧山口県議会議堂は、山口県政資料館として利用されています。

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