<解説>
築城された年代は分かっていませんが、沖縄最古と言われる金石文(金属や石に書かれた文章のこと)「安国山樹華木之記碑(あんこくさんじゅかぼくのきひ)」によると、首里城周辺の整備を行なったと言う一文があるため、この碑が建立された1427(応永34)年以前に築かれたことが分かります。
琉球王国第二尚氏(りゅうきゅうおうこくだいにしょうし)の尚真王(しょうしんおう)、尚清王(しょうせいおう)が統治した16世紀半ばになって東南の石垣を二重にし、門を作るなどの整備や拡張がなされて今日見る首里城の形が完成。
那覇の町が見渡せる標高120メートルを超える小高い丘に位置し、政治を司る場だけでなく、聖地的な存在でもありました。沖縄県が発足した1879(明治12)年までの約500年の間、琉球全域に君臨した誇り高い城です。

首里城をグルリと曲線を描きながら取り囲む城壁は、大きく内郭と外郭に分けられます。それぞれ琉球石灰岩の切り石が積み上げられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀半ばに完成。外郭の石垣は1.1キロメートルにも達し、王城にふさわしい風格を誇ります。
また、琉球王国は中国と日本との長い交流の歴史があり、随所に中国や日本建築の影響がみられる点も注目したいところ。正殿は琉球王国最大の木造建造物で、「百浦添御殿(ももうらそえごてん)」とも呼ばれ、琉球の津々浦々を支配する王の象徴でした。正殿前の広場は「御庭」と呼ばれ、重要な王国の儀式が行なわれていたようです。国王とその家族が居住する王宮であると同時に、信仰の聖地でもあったのでしょう。
また、城の周辺では芸能や音楽が盛んに演じられ、美術・工芸の専門家が活躍し、文化芸術の交流も盛んに行なわれていました。1879(明治12)年春に明治政府が首里城明け渡しを要求すると、尚泰王はこれに応じたため、琉球王国は滅亡。その後、日本軍の駐屯地や学校になるなどし、1930年代に大規模な修繕を行ないましたが、1945年にアメリカ軍攻撃により全焼しました。近年復元され、今も繁栄の歴史を物語っています。