<解説>
正中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が645(大化元)年に大化の改新をスタートさせている頃、朝鮮半島では中国の唐(とう)と新羅(しらぎ)が手を組んで百済(くだら)を攻め滅ぼし、高句麗(こうくり)・新羅・百済の三国時代が終わりを迎えようとしていました。百済と300年にもわたって友好関係にあった日本にも、唐と新羅の勢力が及ぶのではないかと考えた中大兄皇子は、662(天智1)年に百済へと大軍を送り込みました。
しかし663(天智2)年、白村江(はくそんこう)の戦いであえなく敗戦。唐と新羅軍が日本にも攻め入って来ることを恐れ、664(天智3)年に水城を築いたのです。翌年、大野城と佐賀県の基肄城(きいじょう)が百済から亡命してきた貴族の指導で築城されました。白村江の敗戦をきっかけに築かれた古代山城群は、九州北部から畿内を結び、外国に対する防御ラインを作り上げています。
中でも大野~水城~基肄城は、太宰府を守る一種の城壁となり、約6.5キロメートルも連なる日本の古代山城では最大の規模を誇ります。
大野城と基肄城を築いた百済の亡命貴族は、当時の最新の知識を持つ兵法家でもありました。大野城に残る壮大な石垣は100間(約180メートル)も続くことから「百間石垣」とも呼ばれています。また、北に大きく谷が開く馬蹄形(馬のひづめに似た形)の山を利用した朝鮮式山城で、日本の近世の城郭とは異なり、曲輪(くるわ)を持ちません。攻められた場合には、役人も一般市民も籠城できるように、湧き水や河川を取り込んでいました。
一方、水城は交通路を遮断して敵の侵攻を妨げる目的で造られたため、日本版の「万里の長城」と言われています。7世紀末頃、大野城の南に太宰府庁が置かれたことから、水城や大野城でも大規模な改築工事が行なわれました。奈良時代に入って多くの山城は廃城になりましたが、水城と大野城は9世紀頃までその記録が残っています。1274(文永11)年の元寇のときには、元軍の博多上陸を食い止めることができなかった日本軍が、水城まで後退して壊滅を回避。古代の知恵が有効だったことが証明しています。