<解説>
正解はBのコイです。
広島城の天守閣は、原爆で廃墟同然となった広島の町の復興シンボルであり、広島の観光や産業復興、文化財としての価値があるとして1958(昭和33)年に外観を復元しました。
復元から50年目となる 2008(平成20)年には広島城のシンボルマークを公募し、広島市の高校3年生によるコイの図案が最優秀作品に選ばれ、採用されました。
広島城の堀の中を力強く泳ぐ鯉の姿を見て、このシンボルマークを考えたそうです。
今では広島の惨状を知る人も少なくなりましたが、広島城は今でも復興のシンボルとして、市民に深く根付いているのです。
また、広島城は別名「鯉城(りじょう)」と言われており、現在「己斐浦(こいがうら)」と呼ばれている広島城一帯を、昔は「鯉」と呼んでいたことからそう呼ばれるようになったようです。
ちなみに、プロ野球チームの広島カープは英語の「Carp=鯉」に由来しているなど、「コイ」は広島の象徴となっています。

1589(天正17)年、大阪城の豪華さや城下町の繁栄を目にした毛利輝元(もうり てるもと)が「自分の城は時代遅れである」と危機感を持ったことから、広島城の築城が始まり、その縄張りには黒田官兵衛(くろだ かんべえ)が携わったと言われています。
しかし、築城主であり初代城主でもある輝元は、関ヶ原の戦いで西軍の総大将になったため山口県へ転封。広島城は福島正則(ふくしま まさのり)が城主となりました。
その後、浅野長晟(あさの ながあきら)が城主となり、以後、幕末まで浅野家が代々引き継ぐことになります。
1864(元治元)年、幕府による第一次・第二次長州征伐では、広島城は徳川慶勝(とくがわ よしかつ)を総大将とする幕府軍の本陣となりました。
明治時代になると広島城はこれを引き継いだ形で、朝鮮や中国に侵略を進めるための軍事拠点となり、日清戦争においては、本丸に広島鎮台の大本営(戦争時の最高統帥機関)が置かれ、1894(明治27)年9月には、明治天皇の行幸が行なわれたり、第7回臨時帝国議会が開催されたりするなど、広島は臨時首都として機能していました。
さらに、1897年(明治30)年には、広島陸軍地方幼年学校(のちの広島陸軍幼年学校)が城内に設置されるなど、ますます日本の重要な軍事拠点となっていきました。このように、太平洋戦争時には重要な軍事拠点となったことが、原爆投下の要因になったとされています。