<解説>
正解はCの「松平氏」(まつだいらし)です。
松江城は1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾吉晴(ほりお よしはる)・忠氏(ただうじ)が松江に入り、築城しました。もともとこの地域の中核となる城は月山富田城でしたが、山城であったため、近世城郭の造成に適した、亀田山にある末次城(すえつぐじょう)跡に松江城を築城しました。
堀尾氏のあとは京極氏が城主となりますが、跡継ぎがなく一時断絶。そのあとを引き継いだ松平氏が譜代の大名として、明治の廃城令まで続くことになりました。松平氏の初代城主は、徳川家康の次男である結城秀康(ゆうき ひでやす)の三男にあたる松平直政(まつだいら なおまさ)が務め、七代藩主の治郷(はるさと)の代に、財政改革や産業振興(ろうそく、木綿、タバコの生産等)や新田開発を行ない、松江藩を発展させました。
また、治郷は松江の文化、特に茶道の分野でも活躍し、自ら「不昧流(ふまいりゅう)」と言う流派を完成させ、松江には今でも治郷の趣向が反映されたゆかりの茶室があります。これらのお茶文化は、茶室を建てる大工の技術や、焼き物の技術の発展にも大きく寄与しました。
このように、松江城の城下町は堀尾氏や京極氏の手によって造成されましたが、松平氏が松江の発展に大きく貢献したことから、松平氏の印象が強く残るものとなっています。

松江城は全国で現存する12天守のうちのひとつで、国の重要文化財に指定されています。
天守は外観4重、内部5階、地下1階から成る複合式天守構造で、壁を黒く塗り固めた雨覆板(下見板張り)は、実戦を意識した造りとなっています。
松江城の築城に際して、東側は沼地、西側は足を取られやすい深い田が広がっていたため、石垣を積む作業は困難を極め、5年間の工事のうち3年間を石垣の工事に費やしたと言われています。
そしてその石垣は何度も崩落しました。
そこで、「『人柱』を立てよう」と言う意見が出ました。当時、大規模な建造物を建てるときなど、災害や敵襲から守ってもらうよう人身御供を捧げ神に祈願する風習があったと言われており、松江城を築城する際にも人柱を立てたと言う伝説が残っています。
結果的にこの城が戦の舞台になることはなく、明治の廃城令により、松江城の諸建造物と三の丸御殿を民間に払い下げることになり、多くは取り壊され、木材は燃料として使われてしまいました。
この状況を見て心を痛めたのが、松江藩の豪農、勝部栄忠(かつべ しげただ)と下級藩士の高城権八(たかしろ ごんぱち)でした。勝部家は藩から銅山経営を任される程の有力な豪農で、高城権八は、その銅山の経営に関して勝部家の相談役的役割をしていました。
この二人が、天守だけでも残そうと、松江城を管轄する陸軍広島鎮台への陳情、交渉を重ね、軍のトップだった山県有朋(やまがた ありとも)の心を動かし、1875(明治8)年、松江城の天守閣は、当時の価格180円(米100俵と同等価値)で買い戻され、保存されることになりました。
その後、もともとの持ち主である松平家を経由して1927(昭和2)年に松江市に寄付されました。
現在、松江城周辺は全国桜百選にも選ばれる桜の名所としても知られるようになり、太鼓櫓と御具足蔵と呼ばれた中櫓、2階建の南櫓の3つの櫓は、2001(平成13)年に復元されて、天守閣と並ぶ松江のシンボルとなっています。