日本の城

目指せ!天下統一!列島縦断「城」クイズ!

第20問 現存する12天守のうち最も高いところにあり、日本三代山城の一つと言われる城は次のうちどれ?

正解 B.備中松山城

<解説>

答えはBの備中松山城です。
松山城は山城で、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)頂上付近に建っています。
鎌倉時代に起源をもちますが、山陰と山陽が交差する交通の要所であったため、戦国時代より多くの城主交代が繰り返されてきました。

江戸時代、1683(天和3)年に備中松山藩の2代藩主、水谷勝宗(みずのや かつむね)のときに改修され、今の天守の姿になりました。
現存する12天守のうち、建物自体の高さは約11メートルで、最も低い天守となっていますが、最も高い位置にあります。

続いて城主となった3代勝美(かつよし)には子供がなく、養子もすぐに死去したために水谷家は断絶してしまいます。
断絶後の城受け取りには、「忠臣蔵」で有名な赤穂藩主・浅野内匠頭こと浅野長矩(あさの ながのり)があたり、家老・大石良雄(おおいし よしお/よしたか)が城番を努めています。
向かいの山から見る風景は絶景で、運が良ければ雲海も楽しめます。
雲海の間に木々に覆われた天守がのぞく姿は、兵庫県の竹田城にひけをとりません。

備中松山城
備中松山城

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備中松山城が舞台となった『備中兵乱』

備中松山城の城主交代の中でも、一番大きなできごとは、毛利氏が松山城を始め、備中国(現在の岡山県)を手にする「備中兵乱(びっちゅうひょうらん)」の合戦場になったことです。

1574(天正2)年、大名毛利氏が城主の三村元親(みむら もとちか)と敵対関係にあった宇喜多(うきた)氏と同盟を結んだことに反発したことから始まりました。
元親が織田信長と内通したことから、毛利氏は小早川隆景(こばやかわ たかかげ)を総大将として8万の兵を送り、城攻めを始めますが、「砦二十一丸」と呼ばれる出丸(小城)が築かれ一大要塞となった松山城に苦戦します。
そこで毛利氏は周辺城を陥落させて、本体である松山城を包囲し、兵糧攻めにしました。
一方、元親と内通した信長は播磨国(現在の兵庫県)あたりまでしか勢力を広げておらず、援軍を期待するには遠すぎました。
そして約半年後の1575(天正3)年5月、城主・元親の切腹によって松山城は毛利軍の物となりました。

松山城が落城したのち、毛利氏は三村氏ゆかりの城をしらみつぶしに攻めかかり、備中の大半を平定することに成功しました。この過程において、常山城(つねやまじょう)では、元親の妹・鶴姫が、城内の侍女三十余名を率い、城外の毛利軍に突撃するも及ばず自害するという悲しい出来事もあったようです。
女軍が戦いに参加したことは全国的にも珍しく、跡地には石碑が建立されています。

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