<解説>
答えはCの「烏城(うじょう)」です。
天守の板張りが黒く漆で塗り固められ、遠くから見ると烏の色のように見えることから、この名が付いたとも言われています。
また、創建時には金の鯱、金箔瓦が使われ、金の烏のようだったため、別名「金烏城(きんうじょう)」という呼び名もあったようです。
江戸時代の天守が主に白い漆喰で塗られているのに対して、豊臣秀吉が台頭したような戦国時代の城は、黒い漆で塗られた下見板があるのが特徴です。
漆を塗り重ねることで、雨に強い板壁を実現しています。
同じような黒い下見板で有名な城としては、長野県の松本城や、熊本県の熊本城があります。
現在の岡山城天守閣は1996(平成8)年に鉄筋コンクリート造で復元された物ですが、築城当時の遺物として「月見櫓(つきみやぐら)」が残っており、国の重要文化財に指定されています。
また、岡山城と言えば、日本三大庭園として有名な後楽園が隣接しています。
この庭園は、藩主のやすらぎの場であると共に、周りを土塁や竹垣などで囲み、城を守る役割を果たしていたとも言われています。

岡山城の東側に位置する後楽園の周辺は、三段の城郭で守られた西側とは異なり、無防備な平地が広がる場所でした。
そこで、宇喜多(うきた)家の家臣で、土木技能に長けていた千原九右衛門(ちはら くえもん)が縄張り現場責任者となり、旭川の流路を変更し、天然の堀として東側の守りの備えにしました。
ところが、この流路の変更は、川幅を非常に狭めることとなり、たびたび洪水に見舞われました。
2代藩主・池田綱政(いけだ つなまさ)のころ、藩の重臣で土木事業に精通していた津田永忠(つだ ながただ)は、この洪水を解消するため、土手の一部を低くし、東の中川にあふれた水が流れるようにしました。
これが放水路として知られる「百間川(ひゃっけんがわ)」です。
岡山城から後楽園にかけての旭川には、水の流れを制御する多くの石組みがみられますが、これは当時、大阪から石工たちを呼び寄せて工事にあたらせたと言われ、高度な土木技術が使われています。
さらに永忠は、後楽園の築庭も指揮をとっており、後楽園に水を引くために、百間川から庭園まで導水管を付け、導水管を旭川の川底に埋めるという方法を使い、少ない経費で水を引くことに成功しました。
このように、岡山城や後楽園、その周辺には、当時の土木技術の最先端技術が凝縮されているのです。