彦根城付近は、東と西の領土争いの境目となっており、昔から重要な合戦があったところです。
そのため、戦略的な拠点として佐和山城、長浜城などの城と共に重要視されてきました。
彦根城の築城が開始された1603(慶長8)年頃。
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利したとは言え、豊臣方との緊迫した関係は依然として続いたままで、まだ天下泰平と言える時代ではありませんでした。
豊臣恩顧の大名たちの力をけん制するためにも、急ピッチで彦根城を築城する必要がありました。
江戸幕府は6人の普請奉行を派遣し、尾張藩や越前藩など7ヵ国12大名に普請の参加を命じ、競争させ完成を急がせたと言われています。
また、1604(慶長9)年7月には、徳川秀忠が築城見舞いの使者を送り、翌年9月には、家康自らが築城の様子を見分するなど、幕府の支援は相当なものだったようです。
さらに、工数を短縮するため、廃城となった大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材も利用したそうです。
実際に、彦根城の天守は、大津城の天守が移築されたものとされ、このことを裏付ける痕跡が、1957(昭和32)年に行なわれた解体修理で確認されています。