<解説>
兼六園があるのは、Aの金沢城です。
兼六園は岡山の後楽園、水戸の偕楽園と共に、日本三名園に数えられる美しい庭園です。
この日本三名園は、中国の漢詩にある「雪月花」になぞらえて、『雪の兼六園』、『月の後楽園』、『花の偕楽園』とも言われています。
その名の通り、雪の兼六園はまさに絶景で、雪害から樹々を守るために施される「雪吊り」は風物詩としてとても有名です。
兼六園は、1676(延宝4)年に加賀藩の5代藩主・前田綱紀(まえだ つなのり)が、別荘を建てたときに、周りを庭園化したのが始まりだと言われています。
その後、増改築が繰り返され、1851(嘉永4)年に13代藩主・前田斉泰(まえだ なりやす)の代になって、ほぼ現在の形となりました。
10万740平方メートルという、東京ドーム約2.2個分の広大な敷地の中に、数多くの美しい景観を臨むことができます。

加賀藩主が代々居城としてきた金沢城。
加賀藩の祖である前田利家(まえだ としいえ)が入城してから、落雷や火の不始末などで何度も火災に見舞われてきました。
その中でも、1631(寛永8)年に起こった「寛永の大火」は、城下町にあった法船寺(ほうせんじ)を火元とし、金沢城中心部の大半を焼失してしまいます。
城の修復は、幕府の許可を得て行なわれましたが、加賀藩は関ヶ原の戦い以降に徳川へくだった外様大名であっため、権力を誇示して謀反を疑われないよう、本丸は再建せずに二の丸を拡充し、本丸の機能を二の丸に移築しました。
そしてこの火災をきっかけに、防火設備の強化が最重要課題となりました。
翌年、3代藩主・前田利常(まえだ としつね)は、犀川(さいがわ)から水を引き、辰巳用水(たつみようすい)を作るよう、板屋兵四郎(いたや へいしろう)に命じました。
板屋兵四郎は、当時、能登奥郡で小代官を務めた人物で、測量技術に優れた土木技師です。
これにより、城内の防火設備が整っただけでなく、城内から流れ出た水は城下町の用水としても利用され、町の防火にも役立つことになりました。
現在の兼六園内にある「七福神山」の周りを流れる水は辰巳用水を利用しており、杜若の緑と清らかな水の流れが人の心を癒しています。