<解説>
正解はAの駿府城(すんぷじょう)です。
徳川家康(とくがわ いえやす)は、息子の秀忠(ひでただ)に2代将軍の座を譲ったあと、「大御所」と称する隠居の身として、1616(元和2)年、75歳で死去するまで駿府城で過ごしました。
死因は鯛の天ぷらによる腹痛だと言われていますが、現在はもともと胃癌を患っていたという説が有力なようです。
1586(天正14)年、家康は自分の支配下にある東海五ヵ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)の拠点を造るため、駿府城を築城しましたが、完成目前で秀吉から関東へ移るよう命じられてしまい、城へ入ることはありませんでした。
その後、天下統一を成し遂げた家康は、大御所として約20年ぶりに駿府城に戻り、天下普請によって全国の大名を集め、駿府城の大改修と町の整備を行ないました。
その駿府城の最大の特徴は、城をめぐる水路です。
家康は、清水港と城を水路でつなぎ、小船が天守の近くまで到達できるようにしました。
その為駿府城の二の丸には、全国でも珍しい船を通すための門があります。
現在の駿府城は、日本百名城に認定され、本丸、二ノ丸部分が駿府公園として整備されています。また、巽櫓(たつみやぐら)、東御門(ひがしごもん)も復元もされて一般に公開されています。
駿府城の石垣には、刻印が刻まれている石を多く見ることができます。
その数はなんと300を超し、刻印の種類も120以上とされています。一説では、この刻印は家康が大御所として駿府城に戻り、天下普請で駿府城を大改修した際、全国から集まった大名たちが、自身が使う石だと分かるように刻んだ家紋や旗印だと考えられていました。しかし、見つかった刻印は家紋や旗印とは一致しないことも多いため、現在でも謎に包まれたままです。
そんな徳川家康の天下普請によって大修築された駿府城ですが、完成した年に大火災に見舞われ、主要な建物がすべて焼失してしまいます。
家康はすぐに再建命令を下し、わずか1年程で再建されました。